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井の頭の冬の夜空。夜空の写真はバカチョンデジカメでは難しくて撮るのに情熱が必要だ。
埴谷雄高が毎日ここを歩きながら作品の構想を練ったらしいが、ぼんやり歩きながら考えるのも好きだ。空はいつも、こだわりなく姿を変え、二度と同じ相を見せることはない。いつの日か、あの空のように、こだわりをなくして生きるようになりたい。













欅 ------------------------------------------------------------------------
ケヤキの向こう とは、東京競馬場の3コーナーと4コーナーの中間あたり(実際はスタンドからの見た目よりも、わずかに4コーナーに近い)の馬場内にあるケヤキやエノキやシラカシの群生した杜(mori) の向こう側のこと。伝説の大ケヤキは1970年代に台風で倒れたが、ふつうのケヤキが今も立ってる。中距離レースの三分三厘の勝負どころで、昔からファンに“欅の向こう”と語り継がれてきた。
あそこで一呼吸入れて仕掛けていった名馬の数々。。。今では競馬文化のなかの一つの詩語となった感があるが、中村勝五郎のジョセツ、田中角栄のマキノホープ、そしてサイレンススズカといった美しいサラブレッドたちが、夢破れ脚折れ たおれてしまった あつい地点でもある。
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(ネット検索して無思慮で引用する人が多い寺山修司の馬場内の話は、私の調査では完璧ではありませんでした)
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府中に対する思い入れはエッセイをご覧ください。
「ケヤキの向こう」という名のホームページで、自分の life work を恥ずかしながら展覧するのが便利であり 夢でした。散逸した原稿も多く、今のところ時間も足りず、全部は まとめられませんが、『サラブレッド配合史』の御愛読とあわせて、永遠に完成を目指し続ける私の 飽くなき成長の一端を、御笑覧ください。
------------------------------------------------------------------------ 欅





 ケヤキの向こう 
ケヤキの杜は、3コーナーよりも4コーナーに近いのですが




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笠 雄二郎 (りゅう ゆうじろう)
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サラブレッド血統研究家 [評論家で日本で10人くらい] & 予想法研究家。

法律データベースの校正チームのチーフ [判決全文校正者は日本で30人くらい]。チーフとしての手腕は日本でベスト10くらい。

ときには相場師 [90年代の大暴落で儲けたのは国内で数人]。

(特殊技能を複数持ち、それを仕事にしてしまっていることを
   説明なしで見抜けた人は親戚も含め、親友以外は、今まで誰一人いない)
単なる趣味人

あるいは、私にとっての職業とは、私の叡智と、使うことのできる時間の範囲内で、世間に貢献できる全てのジャンルのことを言うのであって、ほんとうは名刺に、作家の人のように、「笠 雄二郎」とだけ書くのが正しいと思っている。

 2016年製 
職業が2つあるから名刺も2つにした



◇中学が新聞部、高校が文芸部、大学が映画監督志望、アルバイトが英字新聞社、並行してシナリオ研究所卒業、初就職が競馬新聞社。3回転職して活字の世界を転々。何かを制作したり書いたりしたかったのだろう。

  (ハーバード大学でプロジェクト・ゼロ(Project Zero)と呼ばれる
  素晴らしい研究にあるように、子供は誰しも潜在的に才能を持ってい
  る。それを社会や親が、20歳までに丁寧に磨滅させてしまうのだ。)

◇中学・高校・大学の勉強と、大学受験勉強と、就職活動をしないで生きてきた。
◇映画監督志望→競馬研究家&編集者、と大目標は変化した。

◇1984年に34歳のとき、それから32年後に中古書店で1冊59400円を記録する、難解でシンプルで本格的な血統の著書を、借金して自費出版で5500円という高い定価で世に出した変人。
◇生涯に、世界に対して負けないと信じる血統論を、4回も書いた。

  「研究とは他の誰も見なかったことを見、他の誰も考えなかったことを
  考えることである」(アルバート・セント=ジェルジ)

◇1986年に編集・校正業で、当時は珍しい在宅勤務を始めた、それも法律の〈デジタル・データベース〉の校正部門を、チーフとして携わった、新時代の創始者でもあった。
◇1989年にUNIXのコンピュータを使って、ほとんどのテクニカル・チャートのシミュレーション研究をしていた、おそらく日本でただ一人の個人投資家。

◇私の配合論のキイである〈全兄弟クロス〉や〈4分の3同血クロス〉を持つ無数のG1ホースが、『サラブレッド配合史』出版後、続出したことを、誇りに思っている。なんの不満があろうか。




 30歳頃、若いなあ 
1980年前後、30歳頃、府中のケヤキをバックに




 羽根木 
2015年、昔住んでいたあたり・世田谷の羽根木公園にてパチリ







1日1食の少食・ベジタリアン=腸内細菌叢共生論者。
麻(リネン)愛好者。

テロ反対 & 平和志向者。
勲章なし、前科もなし。
この世に生まれて、おぎゃあと言った途端に、死刑判決を受けた。でも、
ずっと、執行猶予だ。そのうち、あの世から呼ばれて、
永らくの眠り(永眠)を することになっている。でも、
それも、ほとぼりが醒めたら、
また、この世に戻ってきて、違う人生を歩むことになっている。
そのときは、また、会おう。


左翼でも右翼でもない中道。好きな言葉の1つは「中庸」。政治や争いが嫌い。支持政党なし。宇宙には人智を超えたものはあると信じるが、日本古来の神社神道や仏壇法要の範囲を超えてまで、宗教には興味が起きたことがない。人それぞれでいいのだ。

ベジタリアン。でも、もっと徹底していて、コメ、小麦、コーン、ジャガイモも食べない果実と野菜だけの「ゴリラ食」と自分で名付けた食生活をしている。

趣味が広汎で、雑学が多くて、生活スタイルの拘りを貫いて生きてきて、仕事が意外なことに家でやる仕事で(日本一の編集プロダクションは仲間で資本金を出し合って作った職人ギルドみたいなもので、株主で社員であっても、単なる雇われではない)、おまけに2種類(校正と血統研究)も3種類(相場も入れて)も一人前の仕事をこなすので、外から見るとパッと見では理解しにくいが、自分では飽きるほど(とほほ)単純極まりない生活を続けている。

1986年から家で仕事するから、8年住んでいた世田谷では、昼すぎ店に立ち寄ると「編集者ですか?」とか近所の人に言い当てられたが、バブル崩壊後の21世紀の世相になると、井戸端会議で近所に広報してくれる家族もいないし、通勤しない人だから、北の拉致の工作員ではないかとか不審者通報されたり(お巡りさん連れて夜遅く、家に、調べてくれと近所の人が、2つの町で来たことがある)、仕事の曜日のスケジュールの問題で(締め切りだけ守れば良い仕事だから)、週末に家で仕事して平日午後の好きな時間に出かけたりするから、こういう珍しいケースが出てきたが、なんてことはない、家で仕事しているだけなのだ。

井の頭公園や相模湖などに、しょっちゅう通うと、近所の人が電車で、何やっているのだろうと、交代で尾行してくるし(見に来ても池を眺めながら、ぼんやり血統や予想理論の構想を練っているだけだから、単なるアホ扱いされる、とほほ)、ケータイやGPSで、違法なのだが追いかけ回す人も多い。「家で仕事しています」と自己紹介すると、えーっ、仕事してたんですか、と、驚く人もいた。でも、べつに、人間はメシ食うために仕事するから普通なんですよ。

通勤しないけど、一日中、12時間連続で机に向かって座っていると、気持ちも身体も疲れるから、三鷹時代は気晴らしで毎日午後に出かけたら、駅やカフェのトイレは年齢的に大のほうしか使わないこともあって、なぜ、あの遊び人は、いつも大に入って何をしているのだろう? おかしいな、と思う人もいた(座ってしたほうが汚れなくて、きれいでしょう)。気にしている若い人に説明したら、「まさか」だって。やれやれ。まさかw 


家で仕事するといっても、締め切りさえ守ればよい仕事ばかりなので、タイムカードで拘束されているわけではないし、締め切り仕事だから、締め切りは大事だが、いつ何をしようと自由なのは助かります。

気分転換で外へ出て競馬の研究や仕事をしたりした。時には逆に、家で資料抱えて競馬の仕事をしないといけないときは、気分転換で外へ出て、いろいろな町に行ってカフェで編集の仕事である裁判の判例データベースの校正をしたり。まあ、その日の気分で、いろいろだ。最近はあまり出かけないなあ。どこかの町の活字が読める明るいカフェまで出かけて行くと、なんであそこまで行くのだろうと、人が尾いてくる。だって、毎日12時間同じ椅子に座っていたら、1年で4380時間座っていることになる。身体や気持ちが固まるでしょうよ。座ったことないから理解できないって? そういう人のことはしりませんよ。

私は一昔前は、除湿機とかエアコンとか、タイマーかけて点けたまま出かけたのだけど、そういうのは、なかなか理解されないが、タイマーって便利ですよ。え、エアコン点けて家にいるふりしてアリバイ作って、泥棒でもやりに出かけているのではないかって? ああ、それで駅まで追いかけてきたり、「あれ、どこへ隠れた。あいつは怪しい」とか呟くのだね(笑)。もっと、普通の発想をするように努力して、タイマー設定の勉強でもしてくださいね。そんなこと、警察に言うから、あちらも迷惑しますからね。

名前が珍しいから、朝鮮人か中国人なのかと言われて、ずいぶんいじめられてきた。だから、そういう国の人をいじめたこともないし、かばってきた。そもそも、熊本や福岡には、笠なんてゴロゴロいますわ。

 薩摩焼

祖父が鹿児島から熊本に養子に来るときに持ってきた薩摩焼寿官造の十六羅漢壷
床の間に置かれていた
(骨董品の写真は弟のブログより拝借)




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 和気

空襲で焼けなかった生家(1970年頃に建て替える直前)と、
前の田んぼ(早春はレンゲ畑になる)。
春は田に水が入る頃、垣根に白薔薇がいっぱい咲いた。




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1950年、愛媛県松山市、瀬戸内の海の近くで生まれる。魚座、B型。

趣味・・・
   映画1500本、ジャズLP3500枚、クラシック600枚、
   詩誌「解纜」同人、書物濫読約3000冊、
   (バレエ以外の)すべての芸術に接すること、

   相場、 相場のテクニカルチャートの研究、

   囲碁5段、将棋初段、トランプの「こんちくしょう」の熱狂的ファン、
   89年からのPCマニア16台目(2014時点)、元DOSキチ、

   年中無休で仕事や研究をしているので、歩きながら眠ってしまうことも。

   鉱物収集570個、
   好きな鉱物:地球、
      (本、LPレコード、鉱物はエイヤッとほとんど全部手放した)

   中日ドラゴンズ私設応援団長(団員ほか1名)、
   ホッカイドウ競馬サポーター会員番号No.01074 サポート馬:コスモバルク、

   森林浴、海水浴、空や海や樹と接すること、花を活けること、
   呼吸法、体操、サンゲージング、健康法の研究、
   写真撮影、喫茶店通い、画廊巡り、街ブラ、ふらっと海を見に行く、など。



☆最期の日に食べたいもの・・・カレーそば
☆臨終で言いたい言葉・・・「ちょっと肉体を脱ぐわ」「ただいま」
☆欲しているもの・・・自由な魂、無限の叡智、不屈の闘魂

☆モットー・・・ simple is best.
     常に、新しい景色に接し、新しい人と出会い、
     新しいことにチャレンジし、新しい希望を観る
     絶対に自殺しない(哲学的にあり得ない)。暴力を行使しない。
☆死ぬまで好きなもの・・・地球、太陽

☆やりたかった職業・・・カメラマン、ドキュメンタリー映画監督、プロ囲碁棋士
☆好きな言葉・・・自分を信じること
☆苦手なこと・・・自分を信じること

好きな古典・・・老子
尊敬する人・・・仁義を曲げなかった無名の人
何かを学んだ人・・・まず多くの芸術家、そして勝負師やスポーツマンなど
              持てる才能の極限まで生きた人たちすべて。


誕生日が1週間以内に近接している人たち・・・
武豊、岩田康誠、細江純子、岡田繁幸、
渥美清、吉永小百合、松田聖子、アインシュタイン
ライスシャワー、ヤマニンウエーブ、ベガ、シンボリルドルフ、ハイセイコー


○笠一族
笠智衆(映画俳優・小津安二郎作品、山田洋次の寅さんシリーズ全篇など)、笠信太郎(朝日新聞論説委員・経済評論家)、笠りつ子(女子プロゴルファー)、笠浩史(神奈川県衆議院議員)、笠太郎(漫画家)、笠陽一郎(医師)、笠康三郎(園芸評論家)、など。



 鳥たちよ 元気でね 
窓から毎朝、餌を撒くと、いろんな鳥が集まってくる。(流山)
メジロ、ヒヨドリ、スズメなど。畑に撒くとキジバト、キジなど。
タヌキや野ウサギも顔を出したりした。
(2013/1/28 の日記を参照されたし)


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2つの仕事を(血統研究者を72年から、編集者を75年から)、テキトーでなく、きちんと完遂し(87年からは相場繁忙時は相場師にもなるので3つ)、どれも通勤しないで家で仕事しているという、建物の外の人間からはほとんど理解されない在宅勤務の生活スタイルを86年から続けてきた。

年中無休で仕事するのが好きな、エコ超まじめ変人人間。常に同時に2つくらいのことをやりながら、別のことを頭の中で研究したり思索したりしている。

ギャンブルが肌に合わない(相場をきちんと張り、ちょっと馬券を買うだけだが、それは投資でありギャンブルとは思っていない)。風俗遊びができない。

学生時代はバイトの行き帰りにほとんど毎日いろんな町のジャズ喫茶に通った。個人でLPを買えるほど裕福な時代ではなかったから、どこの町にもジャズ喫茶があった。そして20代の転職時に登記所や市役所や特許庁に書類持って外回りする仕事をやっていた。在宅勤務になってからは夕方に気分転換で出かけた。だから、関東一円のほとんどの町を誰よりも知っている。誰よりも愛着を持っている。シャッター街になるまでは、個性的で活力があって、ほんとうにすばらしい町ばかりだった。

TVは時間がもったいないから若い頃からほとんど見ない。通算で27年間は、競馬と大事件以外は観ない生活をしていた。某民放がオウムの麻原のサブリミナルを放送時間内に堂々とやっていたのがばれて以来、TVはアレルギーになった。今は見ないで少し聞くだけ。映画のビデオや漫画を見ない。

掛け布団は夏羽毛と、ウール毛布と、アルミとレーヨンとポリエステルを織り込んだものの3つだけ。整骨の科学的な根拠を元に、敷き布団は使わず、薄手の汗取りパッドのみ。枕は、バスタオルをグルグル巻いてゴムバンドで留めて、ピロケースで包んでグルグル巻いた長い棒状の手作りものだけ。普通の掛け布団と敷き布団と枕は、捨てて、今は使っていない。

シャンプー(原油シャンプー・育毛効果が少しあった)、ボディソープ(ナチュロン・合成界面活性剤なし)、洗濯槽クリーナー(日立洗濯槽クリーナーSK-1、効果一発)、タオル(竹繊維、竹に抗菌効果あり)、手ぬぐい(麻)、洗浄クレイ(ガスール、パリでセレブに人気、化学成分は当然ゼロ)、ヘアブラシ(竹ピンブラシのサンエア、天然の竹で静電気とかおかしなことなし)、ヘアクリーム(SUNSTAR・VO5ブルーコンディショナー、白髪隠し効果)、歯ブラシ(SUNSTAR・GUM #211)、枕(自作、横長棒状)、鞄(genten、品がある)、帽子(grace、麻多め、デザイン力)、ジャケット(麻)、腕時計(YUNGHANS、品がある)、電気スタンド(バイオライト、交流直流変換で朝日の光を実現)、オイルヒーター(PHILLIPS、無音無風で給油もしない)、シェーバー(PHILLIPS、壊れない)、空気清浄機(ダイキン・抗菌抗ウイルス)、エアコン(日立かダイキン、冷風完全ゼロで除湿)、冷蔵庫(ペルチェ式電子冷蔵庫・ほぼ無音。無印良品)、カーボンファイバー超軽量折畳み傘 UVION SELECT 直径85cm (東レ、世界最軽量109g)、モバイルPC(自作改造、WindowsCE でなくDOS で boot)、衣装ケース・収納ケース(無印良品)、色紙・厚紙類(LoFt)、ノニ(セロトニン補給)、ノコギリヤシエキス(前立腺肥大)、重曹(弱アルカリ効果、抗真菌剤、デトックス剤)、タウリン(恒常性維持機能、脳や網膜や心臓を中心にすべての細胞に存在する)、麻の実油(γリノレン酸)、ピーナッツオイル(レスベラロトロール=抗ガン、抗血栓)、水溶性ケイ素(胸腺強化・歯の再石灰化)、プロポリス(林原生物科学研の水溶性プロフィーラ・抗菌、虫歯防止)、アルタンノロエース(ノロなどウイルス死滅効果)、歯磨き粉(全廃)、洗剤(海へ+クエン酸+重曹、柔軟剤とか不要・肌に悪影響もなし)、風邪薬(クラシエ銀翹散、一服で著効。葛根湯・冷えの初期のみ。麦門冬湯・空咳や心肺)、GABANコリアンダー(重金属排出)、DHCキトサン(重金属排出)、大豆レシチンとブルーライトカットレンズ(飛蚊症が消えた)、ぶどうジュース(毒素排出、ダイエット)、入浴剤(エプソムソルト=硫酸マグネシウム or 重曹+海塩)、ゼラチン(タンパク質、ビタミン強化)など、研究し選別し愛用している生活雑貨がほとんど全部他人と違う。

基本的には子供の頃から嫌いな食べ物は1つもなかった。酒・タバコ・カフェイン(コーヒー)は若い頃に断った。砂糖の摂取は脳のシナプスに悪いのでなるべく避ける。辛すぎるものも避けている。白米、乳製品、白砂糖、白い精製塩の4白を摂らない。

コメ、コーン、ジャガイモ、四つ足の肉、鶏肉、乳製品、魚を食べない。
コーヒー、タバコ、酒は飲まない。カフェイン、炭酸、歯磨き粉もやめた。
精製塩、白砂糖、人工甘味料、果糖・液糖などの異性化糖、遺伝子組換え食品、不審な保存料や着色料、フッ素を摂らない。


アブラナ科などの葉物・生野菜、芋などの根菜類、バラ科などの果実・ナッツ類、バナナ、ゼラチン、納豆などの麹菌類、ピーナッツオイルやヘンプシードオイルやアボカドオイルなどの、酸化しにくい不乾性植物油が主食だ。たまに魚を食べる。健康診断を一切断り、ムダな放射線検査を断り、ワクチンを接種せず、歯にアマルガムなどの金属を嵌めず、10年に1回くらい病気の時に血液検査だけするだけだが、異常数値は出ない。おかしなものをいっぱい食べて、一生懸命に健康診断に通うほうが気味悪いと思う。

抗生物質など、ほとんどアレルギーで湿疹が出るので、漢方薬を主に生きている。卵、牛乳、魚の食餌アレルギー、強花粉症もかつては経験あり(全部、民間療法で完治)。リウマチとか膠原病とかの家系だ。おまけに、曽祖父までの先祖が漢方医だったせいか漢方薬や天然サプリや西洋ハーブが好き。医食同源が基本原則だ。20代に東洋医学系の出版社の校正を手伝っていたので、よけいに中医薬や天然の薬用食品が好きだ。地球にはあらゆる治療薬が自然界に備わっていると信じる傾向が強い。健康診断やガン検診や人間ドックなど受ける気になったことがないから、ガン検査の紹介状をもらっても行ったことがない。

子供の頃6年間、山道のマラソンとか夏も冬も毎日走っていたが、3分を超えて走ることが誰にとっても健康に良いとは全然思えない。歩くほうがはるかにベターだ。走るのは毎日3分で十分だ。3分以上走るなんて、ランナーズハイの高揚薬のようなものだと、自分の経験から確信している。

死刑廃止論者(ただし、裁判の判例集の校正を仕事としてやってきて殺人の刑期が短すぎると痛感する)。支持政党・支持宗教は、なし。相場を張ると、政治は客観的に見て、経済だけ見ているのがいちばんだと思いますよ。

バブルの崩壊の1990年代にも株で儲けた、日本では珍しい投資家。と言っても、妬まれることはあっても、誰も褒めてくれない。運が良かったといえばそうかもしれないが、死にものぐるいで相場張ったのに。


 私は私 





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笠雄二郎の血統表
┌────────┬───────────┬──────────────┐
│父・不二夫   │宮内文夫 ↓養子に入る │←余部 ←熊本 ←薩摩(川内)│
│ 松山(和気) ├───────────┼──────────────┤
│        │笠ツギヲ 松山← 余部│ 熊本(菊池)←遡ると京都 │
├────────┼───────────┼──────────────┤
│        │井上美邦 東京(新宿)│←江戸(上野)←信濃源氏←京都│
│母・美津子   ├───────────┼──────────────┤
│ 東京(下落合)│平山いつ 東京    │←石川(七尾あたり)    │
└────────┴───────────┴──────────────┘

クロスなし。アウトブリードが2代継続されている。

遡れば、天皇に衣と笠を授かった衣笠氏が九州に流され都落ちしてのち改姓して笠を称したという。
スサノオが蓑と笠を着て神々に宿を頼んだことを解釈して、蓑と笠は本来神聖な「祭祀的来訪者」が着ることを許されると言われることもある(アレクサンダー・スラヴィクなど)。九州に流れた笠の一族は、神官か僧侶か漢方医が多い。


 往診箱
11代目や祖父が往診に使っていた薬箱


サイアーラインは、ほんとうは京都→熊本で、祖父が鹿児島から養子に行っているから、血統表では鹿児島がいちばん上のラインになる。母の父のラインは遡ると江戸時代以前は、(信濃源氏の井上氏)江戸←信濃←京だから、まったくの雑種だ。
顔や体つき・思考力は祖父の鹿児島のラインの、感性は東京の、意地っ張りなところ・底力は東京、熊本、鹿児島の、のんびりしたところは鹿児島の、倫理観は熊本と、母の祖父の母の父のラインの影響を受けているかもしれない。


 懐かしグッズ
薬箱の中にアドレナリンや杏仁水やヘロインまで持って出かけて助けたのだろう。
救急車や救急病院のない明治時代の医者は偉かったと思う。
終戦後の私の子供時代でも、火傷や目の患者まで来て、野戦病院みたいだった。



スピードは母系、スタミナは父系からと思うが、詳細不明。走ると、スピードはまったく見劣ったが、山の上の松山城まで登るような山登りコースを走ると、ときどき嵌って別馬のように大駆けした。左回りの急坂のあるコースが好き。

 走った走った
ここは市内の裏手でもあり、当時はビルなどなく、手前の丘と、向こうの城山(日本3大山城の松山城)の中間に学校があって、中高6年間、毎日毎日、雪の日も真夏日も走り続けた。
40分の間に、胸突き八丁の城山の裏の(写真左手)急坂を
這い上がるように登って降りてきて体操して解散までできた。




祖父・文夫は、熊本医学校を卒業後、菊池の笠家に、医者の代を続けるために(江戸時代は代々漢方医)養子にいったが、菊池が合わなかったのか?、帝国鉄道院医局助手となり、鉄道病院に勤務して、当時は東洋一の余部鉄橋建設現場医をやった。鉄橋完成後は松山の堀江病院に勤務したあと、熊本から医師の曽祖父・玄雄を松山に呼び寄せて、和気や久枝や堀江に本院や分院を置き、開業する。当時の人物誌によると「人となり豪快、何処までも鹿島(鹿児島のこと)式の風格を備えたる面白き人物・・」とある。

祖父の甥は2人ともアメリカに渡り、戦争中は敵国人として収容所で苦労したが、1人は医者として成功し、1人はOTIS・エレベーターの日本支配人になる。


父は曲がったことが嫌いで、医者として ばかまじめな仕事をしていた。野球、遠泳、乗馬、囲碁、鉄棒を好み、京都府立医大を出たあと、長い間、軍医として戦地にいて、戦史に残るほどの非常な苦労をする。終戦になると中国奥地から、看護婦は丸坊主にして男装させ、部隊の逃避行をおこない、天津の収容所を経由し、九州上陸時の部隊全員の帰還事務処理までやって無事帰還したあと、何十年経っても御礼の便りを送ってくれたり、看護婦さんたちは四国の家まで訪ねてくださる人たちもいたと、死んだ後に聞かされる。

私は戦争体験のPTSDで屈折した帰還兵の父と、胸襟を開いて十分に話し合えたことを人生の誇りに思っている。

終戦後に帰郷して地方で医院をやると、内科小児科に限らず、眼科や皮膚科までやって、レントゲンも自分で現像していた。119番の時代ではないから、全身おおやけどで担ぎ込まれても死なせなかった。同じ境遇の医者の家の友人も、我が家と同じ軍医上がりで開業医院は野戦病院状態だったと言う。よくわからないが、そういうのを見て生きてきたから、私の3人兄弟は、誰もリタイアするとか言ったことがないのかもしれない。環境には感謝しないといけない。

母は、東京で一番古い跡見女学校を卒業し、松山に嫁いだ。趣味は花づくり、短歌、絵など多彩だった。早朝から深夜まで働き、交通機関がストで止まっても往復14kmくらい歩いてピカソの展覧会とか見に行っていた。

母の父は日本フエルトのサラリーマンで、音楽が趣味でヴァイオリンを弾いたりしていた。
母の祖父は11歳で彰義隊に入って官軍と戦い、後に横浜で株屋をやり、その姉は根岸競馬に通う。

兄・陽一郎は、精神科・内科医。30歳頃から「ごかい」運動などを始めて、医師会とケンカして駅前にタコ焼き屋の屋台を出したりしながら、欧米から2周遅れの日本の精神医学界の改革の先頭を走ってきた。『精神科セカンドオピニオン−正しい診断と処方を求めて』(シーニュ社)などの著書を出して、セカンド・オピニオン活動を始めた奇人。

弟・康三郎は、わざわざ北の果ての北海道大学農学部を出て、札幌で、20歳代から主婦の友の「園芸ガイド」や、NHKの園芸雑誌への寄稿で活躍していたし、ノーザンホースパークなどの、北海道の札幌をはじめとする主なほとんどの公園や地下通路などの設計・管理や維持・案内に携わり、北国の植物の園芸評論や造園コンサルタントを、ほとんど無休で頑張っている。共著の著書に、『最新 園芸作業12カ月』(主婦の友社)、『朝日園芸百科 春まき一・二年草、秋まき一・二年草』(朝日新聞社)、『花ある風景』(札幌市教育委員会、「さっぽろ文庫」)など10冊がある。


 今でもインナーチャイルド 
小学校入学して、弟と、我が家の庭で。
昔の写真をデジカメで再録した。
  弟のブログは「some ブログs」や「リンク」から、どうぞ。




(プロフィールなんてのは、しょせんはクサい作業だが、名前や競馬のことで、あるいは落ちこぼれだ、やれ転職屋だと、蔑まれ白い眼で見られて生きてきた人間は意地でも書くべきだと思う. 苦笑。
 で、子供の頃は御多分にもれず、親に反発しながら自己形成してきた。でも、振り返ってみると、こういうふうなかんじにおいて影響を受け、血を引いているようだ。
 今回、プロフィールを書くにあたって人生を振り返ってみたが、吸い取り紙のように、若い頃はいろいろな親族の趣味や個性、長じてからは自分の経験や出会いが、必然であるかのように絡んできていることが、以前、思った以上に再確認できた。人生って、こういうものなのだろう。)


もちろん、個性の強い人間ばかりの家庭よりも、普通の家庭で育って、普通の学校に行ったほうが楽だったと思いますけどね


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 城北保育園

城北保育園のクリスマス。高校まで一緒だった仲良し3人組。
前列左が私。その右が矢野君で、仁方原発副所長をやって2011年に退職。
その右の右が、須賀田農水省競馬監督課長(のちに局長を歴任)。



家が近く保育園から高校まで一緒に通った須賀田菊仁君が後に農林省競馬監督課長をやるという不思議な縁。なんで競馬場の最上階の監督官室で会うことになるんや。その後の彼は局長を歴任したが、本来は事務次官になる順番だった。

城北保育園はキリスト教系で、非常に個性的で、精神性や芸術性を重視したしっかりした教育方針を持った珍しいような保育園で、全国だといくつかあるだろうが、四国一は間違いないような凄いところだった。小学校があまりに平凡なありふれた学校だっただけに、この保育園に入らなかったら個性は醸成されなかったかもしれない。

保育園では実質的な園長さんである堀井薫さんに出会ったのが忘れられない。お絵描きは得意だった。お日様を描いたことがないので騒ぎになったと聞いたが、描いた写真が出てきたよw。皆の集まりを天井から見下ろす構図で描いて先生を驚かす。

弟のブログにあった保育園の思い出

小学校に入ると、汽車がカーブを曲がってこちらに真正面に向かう瞬間の構図を書いて、「夏休みの友」とかいう全国の宿題帳の表紙になったが、どうも構図に取り柄があるようだ。

小学生の頃は読書濫読、草野球、海に泳ぎに行く日々。若い頃に乗馬をやってた父と競馬を見始める。将棋や碁や株も教わる。

小学校に入ると2年の頃まで、構音障害が生じてカ行の発音がまったくできなくなり、街の保健所までバスで通ってトレーニングして治す。豊田玲子先生にはお世話になりました。ありがとう。もともとかなりシャイだったが、そのせいもあったのだろう、30歳頃まで人と喋るのが苦手だった。それもあって本を読むのが好きになったのだと思う。学校の図書館の本を1日2冊ずつ片っ端から借りて読みあさり、4年までに貸出し冊数の記録を作る。

西日本で2位の中高6年制進学校(学校の教育方針におかしな裏表あり)に進む。受験勉強どころではなかったが、先生に不思議がられたのだが、難問の幾何の問題が、なぜか解けて、200人中187番目で、奇跡的に滑り込み合格した。後年聞いたが、あんなもの2度と解けないだろう。

この学校もキリスト教系で、松山は私立校が半分くらいあるという個性的な町だったが、校長先生が遠大な理想を描いていて、個性的なエリートを作るといって学校を作り、私が10期生だったが、創校時の新鮮な良い雰囲気が失われ始める過渡期だった。


 修学旅行
中学3年生



中学時代は昼にラジオで株式市況を聴いたりしていた。小学6年のときに買った株は、チャート本の見本になるような、みごとな高値づかみになっていた。空の流れていく雲や、海辺の打ち寄せる波を見ていて、いつまでも飽きることがなかった。クラブ活動は新聞部。授業中に前の席の友人と紙に書いて将棋や碁をやるほど凝った どうしようもない生徒だった。体育の授業中も 並んで走る友と、空で将棋を3二飛車、同角成り、5二銀とか頭の中に将棋盤をイメージし口で言い合いながらやっていた。その空将棋7番勝負は、東大に行った遠藤君に2勝4敗で負けた。登攀記、冒険記、探検記を読み尽くす。正岡二一先生にお世話になりました。


高校時代は映画を観たりJazzを聴いたり詩作したり芸術三昧。この頃、本で宇宙の不思議さに強く魅せられるが、理科系がダメで進路は諦める。クラブは友人と第二文芸部というのを許可なく作り、受験教育を批判して雑誌を発行し、教師にいじめられ続けた。特に数学と物理は勉強を拒否し、他も中2から高3まで暗記の一夜漬け以外は一切勉強せず、最後まで自分の哲学を貫いた。白紙答案出したり、試験の日に欠席したり、赤点が3科目あったのに、なぜだか卒業できたのは、教師の数人と父が旧制中学の同窓なので、事実上の放校だったのか?、おそらくそうだろう。赤点2科目で落第という規則だったが、白紙答案が1科目・赤点が2科目もあった私は、完璧に落第と確信していたので、ふてくされて大学の受験勉強なんて全然やっていない。

ときどき市長候補の噂も流れた日本史の島津豊幸先生に、いろいろな教養を教えていただいた。大学受験勉強は英単語を3日だけやる。高3の冬に起きた偶然で数奇な出来事はいずれ書く機会があるかもしれない。つい近頃になって運命論者になってきたみたいだ。

 “東の道”の向こう
高校2年から2階の部屋に移動するルールがあった。
その窓から東三方ヶ森方向をいつも見ていた。
どんどん詩が書けて、夜も昼も広大な自然の中で、大好きな眺めを満喫した。




本と出会えたこと、友人と出会えたこと、芸術と出会えたこと、これらの力によって、めちゃくちゃな少年時代を生き抜くことができた。ありがとう。

受験は映画館の時刻表を見ながら20分くらいで答案を提出して新宿の映画館に駆けつけていた。早稲田文学部も受験が同じ日で、山手線で高田馬場駅を通過するときに、降りるかどうかめちゃくちゃ迷って、なぜか降りなかった。その年は、私が勉強しなくても鬼のように得意な地理が鬼のように解ける年で、受験したら、地理と国語で受かっていたかもしれない。でも、早稲田に行かなくて良かったのだ。早稲田に行ったら、ストで休学の期間もなく、映画やジャズを味わい尽くせなかっただろう。けっきょく、他の大学も合格したが、日大芸術学部に入学して上京した。結果的に、最良の結果となった。

下宿は東京に来てすぐ決めて居着く。布団が到着するまでの2、3週間は、手拭いと下着を入れた鞄を枕にして服を着たまま4畳半の板の間に寝ていた。カーテンも何もなかった。あの一年は何もかもゼロからの出発になったが、私の心は自由と喜びに満ちあふれていた、そして少しばかりの青春のかなしみと…。あの18歳の春が私の人生の原点といえる。人生で魂の自由に優るものは何もない。

若気の勢いで親に独立を宣言し、仕送りがなくなって自分で働きながら学生生活を送る。のちに親とヨリを戻すが、何年かは下宿しながらの勤労学生だった。そして、入学の春にはいきなり日大の不正問題に端を発した学園紛争に出くわす。クラス委員に立候補するが幸運にもなぜか落選し、イデオロギー化していった闘争が肌に合わず離れる。あの2年にもわたる長期のバリケード・ストは、そのせいで無関係で過ごせた。

幸運なことに、この2年にわたる日本の大学史に残る長い休学の期間は、勉強しないで好きなことに熱中していた保育園・小中高校時代と同じで、再び、さまざまなジャンルの学びの日々となった。毎日のように、ジャズ喫茶と映画館と本屋と競馬場と、友人がたむろする下宿屋と、バイト先を巡り続ける日々だった。

アルバイト先は希有なことで発見した。良いバイトがなく安いバイトを転々とし毎日の食べるものにも事欠き極少食で(朝はマグロ缶詰1つ、昼は立ち食いそば・中身なし、夜は食パン1斤・付けるものなし)、52kgであえいでいたときに、なけなしのお金で初めて買った朝日の3行求人広告で、新聞社のバイトを見つける。完全に採用のタイプではなかったらしいが、人事課長が日大の先輩で、面接の席で話しているうちに、ふっと思い付いたように採用してくれる。後年、あれは採用基準をまったく満たしてなかったのだけれど、こいつは、試しにやってもいいかな、と思ったと言われた。そして、それは、当時の東京で最高に待遇が良いと断言できるような、厚生年金や厚生年金基金まで付いている、ふつうの会社の社員並みに近い、夢のような言うことなしの学生アルバイトだった。

この新聞社「Japan Times」(社主は共同通信社社長でもあった福島慎太郎氏)では、そこでアルバイトの組合を創った田村(後に、あの「勝手連」を最初に作った男)のおかげで、オイルショックの年にアルバイト組合(JT臨労組)の4代目委員長として、スト権確立して、ベア60%増、などという狂乱要求をしたりして、しかし闘争が始まるやいなや急に会社側とめちゃ仲良くやって、狂乱インフレをきれいに凌ぐ。ほんとうに団体交渉で互いに笑いが出るほどの、はちゃめちゃインフレだった。2代目の委員長が全共闘の左翼だったせいで、ややこしい組合になりかけていたが、私が委員長をやると、漫才的駆け引きと労資協調の笑いと楽しみの組合に変貌し仲間に喜ばれた。イデオロギーに興味が湧かない私の個性ではそうなってしまう。

今でも、アルバイト仲間と同窓会をやって、当時の年輩の社員の人も呼んだりしているが、まあ、私たちは希有な変人なのかもしれない。

 丹沢元湯 
1970年頃、ジャパンタイムズのアルバイトの組合の温泉旅行
徹夜して寝なかった一部の猛者たち(私は後列右)




不思議なことに、小学校は毎日図書館、検便のときは新聞紙の上。中学は新聞部、高校は放送部と第二文芸部、弁当を包んでいたのが新聞紙。大学は映画コースとシナリオ・コースと放送学科、合間にシナリオ研究所、仲間と16mm映画製作クラブ、下宿の畳の下に新聞紙。バイトは英字新聞社、詩誌「解纜」同人。就職が競馬専門紙。転職して法律事務所で書類書き。次の転職で東洋医学系の出版社。次の転職の編集プロダクションで新聞・雑誌・出版・デジタルデータベース・チラシなどの制作・校正。遂には、自分の出版社を設立して『サラブレッド配合史』を出版敢行。原稿書いて寄稿するのがスポーツ新聞、競馬週刊誌、競馬月刊誌など。お断りしたのがTV出演と雑誌の編集長。メルマガ発行に、電子書籍も出版。週明けに発売される競馬週刊誌は50年くらい買い続けてきた。家で一度も契約したことないのが新聞の一般紙。TVはほとんど見ないで生きてきた。というふうに、活字やメディアとの関係ばかり続く人生が始まることになる。

下北沢の下宿屋に集まった仲間たち、バイト先の英字新聞社での仲間たちとの5〜6年間の交友は、まさに梁山泊。青春にいて考えられるかぎりの ありとあらゆることをやり尽くした。


 下北沢 
下北沢の下宿屋。毎月、麻雀のタイトル戦「弓削田杯」が戦われ続けた。




映画は多い年で年に300本、ジャズ喫茶でLPは年に1000枚は聴いた。はたち前後の数年間の、この2つの蓄積は、のちの人生に、とくに力になった。

2年のスト休学の間に、南青山にあった「シナリオ研究所」を卒業。なんと、私は、血統評論家・山野浩一氏の、そこの後輩になるらしい。

夢であったドキュメンタリー映画を撮ることは未完。

もし、競馬の仕事をしなかったら、
映画を撮っていたか、
相場の世界でストラテジストになるか、
ヘッジファンドの運用をしていたかもしれない。

下北沢に集まった仲間の半数以上が神戸の灘高出身者で、バイト先に横浜方面出身が多かったので、今でも話し言葉は不思議がられるが、標準語を神戸訛りに崩して 松山と横浜と九州のメリハリを少し混ぜている。

血脈も人脈も訛りも影響を受けた文化も私は多様だ。嬉しいことに何のこだわりもない。自分の内に瀬戸内海、松山、鹿児島、熊本、金沢、京都、神戸、東京、横浜、ハワイ、地中海の香りが混在し漂っている。

東欧、仏伊などヨーロッパの映画、ラテンミュージックやジャズ、モーツアルト、中学高校の設立母体がカトリック系だったので宗教に対する反発もあって、フランスのカミュやサルトルの、無神論の実存主義哲学に傾倒し、クレー、ピカソ、ゴッホの絵や、とくに日本の詩の影響を熱く受けている。

趣味が多かったおかげで、いろいろな認識や考え方の洗礼を多角的に浴び続けたせいで、政治や宗教には興味が湧かなかった。人それぞれだろうが、私の場合は、いまだに、そうだ(やおよろずの神信仰のような神道は肌が合う)。だから、地球の青空や星空や海が好きで、動物と植物と鉱物は全部好きだ(なんだ、地球の全部じゃないか)。

(生家の庭には数え切れないほど多種類の樹や花が植わっていて、弟は若い頃から全国誌に執筆する、北海道では誰にも負けない園芸・造園の技術者兼評論家になったが、私も自然が好きだ。)

編集者として趣味の多さが重宝されたのは幸運だった。

(趣味のことは「my favorites」「エッセイ」のコーナーをご覧ください)


 のんびりしたとこなんですわ 育った家の近くの海




アルバイト先の新聞社の社員には麻雀、オイチョカブ、競馬狂が驚くほど多かった。彼らに勝負の厳しさや粘り腰を教わった。メディア・マスコミの社風も味わったわけだ。

1972年から1973年頃に詩誌「解纜」同人として、詩作と詩の評論を発表。

下北沢に集まったうちの一人、M原は、灘から東大に行ったが、競馬が好きで競馬ばかりしていた。彼のお父さんは大勝負だと府中まできたりしていたが、神戸から新幹線で新橋の競馬会の上にあった軽種馬協会の事務室に輸入牝馬の血統表の本を毎年買いにきていた。彼に誘われて、血統表を眺めて感動する。私もまねして買いに行き一気に血統に開眼する。

血統があまりに好きになって、就職は在学中に日本中央競馬会だけ出向いて、なんとなく総務に当たってみたが、「採用する大学は一流のところだけです」と言われて門前払いを食う(あほらし)。他に人生でやりたいことが見つからず大学もロクに行かずに遊んでいた。

何年かかれば卒業できるのだろうなあ・・なんて思いながら、競馬会とTV局以外の進路なんて考えられなくて毎日、落ちこぼれてボーッとしていたら、バイト先の社員の人が、うちの社員になれ、推薦するから社員になれる、と勧められるが、安楽で単調な生涯が見通せるのが怖くてお断りする。声を掛けていただいた土肥課長さんは、シベリア抑留者で、花札のイカサマをやって食料を得て生き延びて帰還した人で、ほとんど無駄口を利かない寡黙な人だった。土肥さんに言わせると、バクチとはイカサマをやっても生き死にが掛かるほどのものをいうのであって、おまえらがやっている小バクチなんか蝿が踊っているようなものだと言われたことがある。土肥さん、ありがとうございます。おかげで、ついに、人生を賭けた命がけの勝負をしております。

アルバイトの組合の委員長をやって、ベアや待遇・労働環境改善要求をまじめに交渉していたから会社に評価されたらしい。社員の人も、組合の要職の人が指導力を見込まれて出世した時代だった。その話に乗った私の後輩(大学中退)の頑張り屋が最後はなんと部長になったから、おそらく私も部長まで行けたかもしれない。でも、途中で退屈して退社したかもしれない。新聞社というのは脇道のセクションでも居心地の良すぎる会社で、社員の先輩もやめて外へ出ていって冒険しようとする人がけっこういた。居着いたら、血統なんて書いてないに決まっている。

出席にめちゃくちゃうるさい先生のフランス語が、試験はバイト先のアテネ・フランセから未来社に行ったフランス語ぺらぺらの先輩と、1週間、お茶の水のクラシック喫茶「丘」の最上階の特等室にこもって猛特訓し、テストは完璧にできたが、やはり出席不足で卒業もできそうになかったが、「働いていたから出席できなかったんです」と試験の日に鬼先生に屁理屈言って食い下がったら、黙ってらしたが、後日、見たら、なんと単位がもらえていて、卒業となった。

日芸の性格上、映画は斜陽化し始めていたが、TV局に学校推薦で入りたかった。(卒業できたら必要だった)卒論に書いた『番組編成論』で、当時の低俗な番組編成が人間をダメにすると批判し、これからの時代のTVは、ニュースとスポーツとドキュメンタリーだと論を展開したら、指導教諭に徹底的に好まれなかった。時代はドキュメンタリー以外は私の言ったとおりになった。

フランス語の先生の気紛れで急に卒業となったので、就職活動とか全然していなかった。既に3月になっていたので、父の旧制中学の後輩の衆議院議員のコネで、野村総研のシンクタンクに入れたが、そういうのが燃えない質なのと、自分が仕事して生きていくには活字やメディアの世界でないと気が晴れないのではないかと思っていたので、バイト仲間が先に入社していた競馬専門紙に就職してしまう。


 のんきに遊びました 育った家の近くの山




でも、「サラブレッド血統センター」の前身とも言える、その専門紙は、白井新平さんが手放してから血統の専門紙のイメージはなくなり始めていた。
当時で競争率20倍の試験を受けず、喫茶店で『配合史』の草稿を見せて、コネも使ってねじ込み、裏口から専門紙に入社後、浅見編集長に抜擢され、3日目にして印を打ちコラムを持つ。
1975年に前代未聞、当時では考えられない「ナスルーラ3×4」などの表記で、血統・配合から見た予想コラムを書きまくり、コラムの年間的中率6割を達成する。家でも仕事をやったので、朝から晩までトイレ以外は競馬漬けだった。

低収入や会社のポリシーに不満で、私はそれほどやめることに積極的でもなかったが、あっという間の勢いというか、主だった人たちが辞表を出すというので、どうでもよくなって、男の友情として24人と一緒に辞表を出す。ほんとうは大川慶次郎さん(隠れ社長)が制止するのを期待していたらしいが、ワンマン会長との板挟みで動けなかった。大川さんは優しい人だから、それを気にしてたのか、10年後や20年後でもお会いするたびに、Aは元気か、Bは何をやっているかと、いろいろ心配してくださった。

ともかく、その年のボーナスの額の話が違うと言い始めてから何日もしないうちに、あっという間の、うんざりするような、浪人稼業転落だった。若いから黙っていたが、あれは闘争とも言えないほどの、駆け引きの単純なていのものだった。

競馬の会社を辞めると他の競馬の会社には入れないというおかしなルールが当時あった。競馬会社という特殊な世界を出るとどこにも採用してもらえず、5カ月目に面接25件目で、給料は良いがサラ金の組合潰しの役なども断って、やっとこさ法務特許事務所に入れた。

そこでの4年間は競馬場は皆勤。給料は安かったが残業はゼロだったので、午前から家から直行で競馬雑誌や新聞や本を読みながら、外回りで関東一円を回り、夕方は書類書き、夜はほぼ毎日、家に直行して、ほとんどすべての時間を競馬の研究に捧げた。そのときの2500レースの膨大な分析結果は全部捨てずに持っていて、今日に至るまでずっとそれを折に触れて読み直してきたが、まじめな話、もうほとんど記憶してしまっている。

その時の蓄積が今の予想に活きている。仕事の関係で登記所や市役所を回ったので、関東一円のほとんどの町の、シャッター街になる前の大活況の頂点を知っているのが自慢だ。ところが、(あとで考えればめちゃ幸運だったが)原宿の岸記念体育館のカフェで時間潰したり、めちゃくちゃ疲れる仕事なので朝寝坊したりしてサボっていたのがばれて、逆鱗に触れ解雇される。

当時は28歳以上の転職なんてアホがやるものというご時世だったから仕事が見つからず、いよいよ山の中で農業でもやるしかないかと思ってタバコ耕作の畑を探しながら、競馬仲間の東洋医学書などの出版社を手伝い、友人のツテが勝手に動いてくれて、最大手で・最も歴史の古い・業界のプライスリーダーで、東京の有名雑誌のほとんどをやっていた編集プロダクションに、なぜだか不思議なことに、あっという間に、紹介の紹介の紹介で入り、雑誌などの編集者になってしまう。


 ゴールデン街 落ちこぼれや文化人の集まり




当時は、大卒→ちゃんとした企業就職、というパターン以外は、落ちこぼれで、新宿ゴールデン街で知り合って、出版社や編集プロダクションに潜り込むか、小説を書いたり詩人になったりという、文化人への再挑戦のコースがあった。タモリなんかもそうだ。山下洋輔、坂田明、三上寛、高信太郎、船戸与一、猪瀬直樹、南伸坊、山本太郎、たこ八郎、俵万智、内藤陳、立花隆などもいた。私もそういう意味で言えば、国会議員になってベレー帽で問題になった長谷百合子の店「ひしょう」系の新宿ゴールデン街人脈といえる。ありがたいことです。


超個性的出版社だった刊々堂出版社(上海中医学院の『針灸学』浅川要訳で、日本翻訳出版文化賞受賞)の青木久仁男氏、青木氏との縁を作ってくれた東大を出たのに何か不満があってか日雇い労働者をやりながら競馬場通いを毎日一緒に繰り返し、東大病院のカルテ取り違え事件でリンパ腺ガンが処置手遅れになって夭折した小野田さん、後に陽和病院副院長になるポン友の服部君、日本の古典文学の精髄である笠間書院編集長の橋本孝氏などに一生の恩を抱いている。


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 ジャズ喫茶 new DUG 新しいステージのドアを開けていって



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この編集プロダクションは、校正を主にした、特殊技能の職人のギルド組合で、出版社のアウトソーシングを請け負い社員の福利厚生の負担を減らすというのを謳い文句に、業界最初の船を漕ぎ出して、どんどん成長して圧倒的に日本一の編集プロダクションになっていった。その創業直後の発展期で、今のような無機質でない、しかし新宿ゴールデン街や出版社系人脈の、趣味嗜好の強さが災いしたのか普通の人生路線から落ちこぼれた、しかし読書や芸術が熱狂的に好きな若者たちが集まった、職人編集者の、非常に文化的濃度の濃い集まりだった。

ご自身はお寺の子で若い頃絵を描いていて「坊主と医者の息子にはろくなのがいない」という諧謔的な持論を持つ西峰三景という編集業界のキーマンと出会い、とにかく多趣味で守備範囲がめちゃ広かったせいもあって便利だったのと、その時の校正の腕が今一歩だったので、ありとあらゆるジャンルの出版物の校閲・校正に転々と回されて鍛えられた。おかげで、業界で2人しかいないと断言できるほどの場数をこなす。50種類以上の雑誌や新聞をこなしたときには、某紙で600万字連続・初校見落としゼロなどの腕になっていた。最終的に77種類の出版物を経験する。校正チームのチーフは(スキルの足りない若造の新人なのに)、責任感や、マニュアル作りや、人使いが上手だということで、2年目から任されはじめて、5年目以降は主にはチーフしかやっていない。これで得た自信については感謝の言葉もない。

主に、現マガジンハウスのかつての看板芸能誌「週刊平凡」のリライト校正(もの書いてたからリライトができたのと、日芸を出たという縁もあった)、スポーツ新聞の競馬面の制作・校閲(専門紙にいたからにちがいない)、東洋経済新報社の「週刊東洋経済」「金融と銀行」や「会社四季報」の校閲(金融経済が好きなこともあって、東洋経済とは「就職四季報女子版」まで縁が続く)、法律判例DB(データベース)の校正(法務特許事務所にいたからと呼んでいただく)などに携わる。


 ロマンの血統 

1977年の菊花賞は、テンメイ・メグロモガミで大勝負した。血統的には完璧な馬券だったが、2着、3着だった。
テンメイは名牝トウメイの子。
メグロモガミは、母が私の好きだった競馬サークルとの人の縁を繋いでくれたカミノテシオの姉だった。

 重厚 


年収1200万円の「ダカーポ」のレギュラーの仕事が決まりかけていたときに、なぜだか突然に派閥の横やりが入って、安価なギャラのスポーツ新聞の競馬面に回される。そこで、時間の不規則な仕事やハードな仕事を続けすぎて体調を崩し、死んでしまっては悔いが残ると思ったのと、人の書いた競馬の原稿を読む毎日に発奮し、一気に配合史を書き上げることができた。朝近くまでの残業で時間がなくなるが高収入になる「ダカーポ」へ行けなくて幸運だった。本を出した後、健康は快復し始める。

1984.3.9.   1973年(23歳)から少しずつ書き始めた、配合論から見た血統論を配合史をたどることで実証するという、国内外に前例を見ない視点・狙いを秘めて書かれた『(日本)サラブレッド配合史』を1983年9月に書き上げ、レイアウトから装丁から製本材料や紙の選定・運び込みまで、何から何まで全部自主制作で(超多忙な笠間書院の橋本孝氏に3回も貴重なアドヴァイスをいただく)、1984年、34歳で遂に世に出す。定価は5500円という目が飛び出るような常識破りな価格だったが、その価格でないと借金した出版費用が出ないからでもあった。

当時までは、配合論は世界にほとんどなかったし(20世紀の長い空白域だった)、日本には短い示唆ほどしか存在していなかった。“配合から見た血統論”なんてジャンルは戦前に翻訳が出てから存在しないのだから、存在しないジャンルのことに、ただ一人、日夜没入することに興奮と戦慄を覚えていた。おそらく、好きなことに対する長い期間の のめり込みと 啓示のような産物だと思う。なにしろ、ずっと競馬論を考え続けていた。途中に何度も転職したり失業したり、細々とした綱渡りの貧乏生活が10年も続いたが、あまりに夢中に考え続けていたので、貧乏を気にする暇がなかったのは幸いだった。

5カ月という超特急で制作し、製本が完成して2日後に制作費を貸してくれた父の元にすぐ送り届けたが、その翌日、なぜだか、元気だった父が脳溢血で急逝する。本に対する言葉は「こんな難しい本が売れるか」だったらしいが、これはシャイな賛辞と受け取った。ありがとう。

サラブレッド血統センターの白井透氏は、実績のない私の本を出版することに同意してくれなかったが、「種牡馬録」の読者名簿を売ってくださり、推薦の言葉をくださった。ケイシュウで何度かお会いしていた縁だろうか。ありがとうございます。それを東京美術社の最高の印刷技術で、もちろん私がデザインしたダイレクトメールの葉書にして、おかげで、高価な本が3週間で完売してしまった。制作には、当時珍しい電算写植や中性紙を使った。装丁の箱以外は、まったく金をケチらなかった。おかげで、その版下で後年、第2版を出すことができ、ひいては第3版、第4版とフイルム撮れば済んだわけだ。いくら貧乏でも、こういうことはケチらない性格だ。

父が亡くなったせいもあって、校正の仕事もしないといけないし混乱していて、スポーツ新聞の執筆はお断りした。中央競馬会の売店でも売っていただいたが、そこから頂いた増刷依頼はあまりに疲れていたので断念した。寄贈した近所の図書館で、初版が3年連続して1週間に1回貸し出しがあったから、刷れば2000冊くらいは一気に行ったと思う。それくらい、当時の競馬文化の風土は乾き切っていて、読者は渇水状態にあった。



1985、加藤栄、田端到、早野仁、栗山求、望田潤、尾林奉之、桑原拓三各氏など、競馬の物書きを、その後多数輩出することになった競馬通信社の伝説の競馬・血統雑誌「週刊競馬通信」に、当時発行を請け負っていた水雲社の伊坂孝史氏や、青木義明氏から要請され、外部執筆者としては、はじめて、佐藤洋一郎氏とともに参加する。当時は競馬会の「優駿」以外に競馬雑誌はなかった。

競馬通信社の、雑誌の執筆や編集に関係していた全ての血統評論家や、読者から評論家になった人たち(佐藤かずあき氏、くりがしら氏、衣斐浩氏)の多くに、『サラブレッド配合史』の血統論が影響を与えたことを誇りに思っている。


何人かの配合コンサルタントをやっている人から、自分のゴーストで書いてくれと言われてお断りする。そういう世界に入っていく興味も失う。


「書斎の競馬」(全号), 「サラブレ」, 「競馬王」, 「別冊宝島vol.187」(ムックでまだ入手できます), 「HORSEMAN'S REVIEW」などに執筆。



著書に『サラブレッド配合史』 1984, 1985, 2000, 2011.
 (初版は、らんぐる社から出版、ASIN: B000J736D2.
   第2版・箱入豪華装丁版は、伊坂孝史氏の水雲社から、ASIN: B000J6P40Q.
    第3版・廉価普及版は、競馬通信社から、ISBN: 978-4-434006289.
     第4版・電子書籍版は、ミエスク社から、出版されました。
          3版までの書名は『日本サラブレッド配合史』です。)

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中古だと定価より高くなることが多いです。初版は定価5500円でしたが、古本屋で最高で13000円というのも見かけました。ネット中古は、もっと高いです(2016年11月\59400)。古本屋のは私が買い戻していますが、私以外の方は版元などで新品をお買い求めいただいたほうがお得だと思います。(2005年現在、3600部弱、売れて、完売しました。こんな高い定価の本を、ありがとう。)



 らんぐる社時代の名刺 
らんぐる社設立時の名刺



初版を出した私の“らんぐる社”とは、名血馬 Quadrangle (4角形)と、夏目漱石の「智に働けば角が立つ」と、クッキー「猫の舌」(フランス語で langue de chat ラングドシャ、langue は言葉の意も)を しゃれたもの。クッキーでも味わいながら小難しい血統論を読んでください。


『忘れられない名馬100』1996
   (共著・100頭の血統批評を担当。学研・絶版)
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『的中へのアクセス』1997(共著・競馬通信社・絶版)
  ◇click here →アマゾン中古。

* 絶版の本は、アマゾンの〈ユーズド(中古)〉で、ときどき在庫が出て取り扱いがあります。
最高価格は、『日本サラブレッド配合史』初版本で、2010年の、¥55000です。ありがとう。

『血統論』2011(ミエスク社・電子書籍)


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1986.6 バブルの頃からは、法律・判例データベースの在宅校正チームのチーフを任される。これが編集の仕事のライフワークとなっていく。当時は私も誰も、家で夜間割り増しとかのつかない仕事は大幅な収入減になるから、したがらなかったが、なぜだか、このおかげで、競馬・血統研究や、相場や読書やパソコンいじりなどの自由な時間配分が可能となり、時代の最先端のスキルに、ぴったりついて行けた。この深い意図に感謝したい。

1988.6 空前のバブルのせいで世田谷で住んでいた、こぢんまりした借家の土地が、坪500万になったので、なぜだか、大家さんに独身の娘さんの話ばかりされるほど気に入られていたのに、息子さんたちにいじめられて追い出される。

新松戸で、電車の窓から駅の裏にステキな樹があったのを見て、ふと降りて、物件を探し転居する。そこでは、翌1989年に近くにできた丸荘証券(のちに金融恐慌で山一、三洋とともに日銀特融を受け倒産)の支店に、珍しく社員兼上得意の顧客用に、UINXのパソコンが置いてあって、株価データが毎日ネット配信で送られデータベース化されるサービスに加入していたので、毎日通ってパソコンを使わせてもらい、テクニカル・チャートの独自の研究(カスタマイズ)を完成する。このいやいやの引越が、なぜだか最高の結果をもたらすことになった。新宿と渋谷の証券会社しか知らなかったので、新松戸に行かなかったら、バブルの崩壊をチャートで的中なんてできるわけがなかった。

そのテクニカル・チャートの研究が1989年7月に、なぜだか間に合ったおかげで、バブルの1990年の崩壊を前年から予測できた。1989年9月の大型株の天井から売り始め、1990年正月明けに全面暴落が始まると、日経平均の市場最高値の翌日から残りもさっさと売り、急落・暴落の底で買い、その上げ下げを何年も繰り返し、儲けてマンションを99年の最安値の年に、キャッシュで買う(残念ながら、不思議な、じつに不思議な欠陥マンションでしたw)。私は人とは考えが異なる宇宙人であり、contrarian コントラリアンだ(ほとんどの期間はトレンド・フォローですけど…)。

1989から1992 までの大暴落の4年間は、相場も仕事とする。
在宅勤務になると、締め切りさえ守れば、何曜日の何時に出かけようと出かけまいと、私の自由裁量だから、息抜きの喫茶店通いが激しくなり、通算で10000回は軽く超えている(笑)。喫茶店評論を書いたら誰にも負けないだろう(カフェの最高時は2008年頃で、すこしずつ雰囲気が落ちていった。今はカフェ通いはやめ)。



金になるかどうか抜きで、独創的な考えの構築に取り組んできたが、配合論や打ち出したいろいろな概念を無断盗用されることがいやで、競馬から離れるつもりで2回筆を折ったことがある。そのせいで、途中から他人の競馬論も血統論も読まないことにした。片っ端から収集していた競馬の書籍はほとんど全部捨てる。血統の後輩がゴミ捨て場まで取りに来て熱心に集めて持って帰っていた。

1989年4月に筆を折って、9カ月後にバブルの大崩壊が起きて、相場に熱中できたのは最高の幸せだった。そのときは夢中でやっていたテクニカル・チャートの研究は、まだ完成していなかった。


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 1998 
1998年頃は、ジャズ喫茶「ふぃあてるぱうぜ」の連中と中山通い


1993. 加藤栄さんが私がほんとうに血統をやめてしまって、断筆がほんとうなので(笑)驚いたらしくて、なぜだか、「別冊宝島」の対談の話を持ってきていただいた。加藤さん、ありがとう。

1994〜1998. その「別冊宝島」が競馬通信社にばれて、なぜだか青木さんから、競馬通信社のネット、パソコン通信、fax, Tel などの「マルチメディア予想」に呼び出されて、断れなくて、突然、その週から、いやいやの復帰。全国全重賞&関東全特別の予想をやる。翌年から本誌予想を担当。編集の仕事を続けながら、通算馬連的中率43%を記録する。でもなぜか、この企画は消滅してしまう(なんでや!)。

1995年から2013年末まで、「デイリースポーツ」関東版に血統コラムを連載。

1996. 電話で町内の怖い人を怒らせ、「今から叩き殺してやるから待っとれ」と言われて、しょうがないから玄関に座って待っていたら、あと50mのところで、その人のお母さんが止めてくれる。おかげで死なずにすんだ。ありがとうございます。

1998年に競馬月刊誌の編集長を依頼されるが、悩みに悩んだ末、お断りする。2年くらいで廃刊となったが、創刊号を見て、やっておけばよかったと思った。時すでに遅し。運を失う。

1999年、コーヒーは20代に、は30代にやめたが、タバコは「いこい」からパイプになって、ショートピースになって、1日ショート・ホープ65本という、いつも指にタバコを挟んでいるという超ヘビー・スモーカーだったが、ヤニが付くのがイヤになって禁煙を断行する。何かをやめようと思って失敗したことが一度もない。

1999. キャッシュで買った中古マンションは、じつに不思議な欠陥マンションで、放浪が始まる。


2000 に、メールマガジン「ホースレター」発行。

2000 に、最高裁判所のホームページの、重要判例集の校正チームのチーフを担当する。人出がとてもじゃないが足りなくて、この世界ではいろいろな仕事をしたせいで顔が広かったので、弊社と裁判までやっている競争相手の会社の役員に頼み込んで、東京の複数の編集プロダクションの一流校正者50数名を集めての、校正の歴史上かつてないほどの壮絶な仕事となった。これほどの大仕事は「読売住宅案内」創刊と並ぶかもしれない。両方とも、私はチーフの縁があって読売は断って逃げたが、最高裁は実際にチーフだった。50歳の誕生日は、36時間連続仕事してタクシーで先方へ、締め切り5分遅れでゲラ刷りを届け、徹夜で迎える。


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少年時代は時間軸の始点と、空間の果てが不思議な存在で、宇宙の壮大な美しさと、芸術に魅せられた。今では、血統表のあのなんともいえない美しさや、血統論の構築は、私のなかでは美の宇宙であり、予想の印は芸術的な目標かもしれない。そういう意味で、私の夢はいつまでも引き継がれているといえる。


 simple is best  シンプルな部屋で、シンプルな気持で(三鷹)



17歳までは与えられた環境の中で自分の趣向が芽生えた揺籃期、
18歳で上京してからは、自分で選択して、ゼロから しゃにむに、生きていくための仕事のスキルを身に付け、そして感性の土壌を耕す若年期、
36歳からは当時としては珍しい在宅勤務となり、家にいて自由な時間の中でいろいろなスキルを磨いた自由課題の発展期、
53歳で人生観を再度大転換しないといけないことになって、54歳からは目標の完成に向かって新たなエネルギーで生き始める。

とかなんとか言っても、単に運が良かっただけかもしれないのだが。まじめに一所懸命に生きてきたことだけは、たしかですけどねえ。

ビッグサイクルは18年、ハーフサイクルは6年で回る傾向がある。
72歳あたりからは相場と社会貢献がしたい。


というわけで、21世紀に入って、第4の人生の前半のサイクルを開始。不要な物、不要な習慣、不要な感情をすべて捨て始める。エネルギーのすべてを少ない目標に注ぎ込むために。



募金は、アフガニスタンに灌漑をするペシャワール会、モンゴルのウランバートルのマンホール・チルドレンを助ける会、東南アジアの子供の奨学金を支援するダルニー奨学金、Wikipedia、福島原発事故後の福島の子供を助ける会に、支援をしてきた。


中サイズの鉱物・美石コレクターで日本一を目指すが、生活の場で接する趣味のない庶民になにかの新興宗教扱いされて、あほらしくて断念して、ほとんど手放す。美石を、月に1000個として、年に1万個、10年で重複も含めて10万個は見た。数百万円投資していたから、おそらく日本で、中サイズの美石コレクターの5本の指には確実に入っていたと思う。



                *



 リュウという名前だからアジア系だと誤解されて(だから私はアジアの他の民族・国民を差別したことはありません)、何かと距離を置いて見られてきた。
 若い頃は、受験教育を批判し芸術を志望して受験校ではまともな扱いをされなかった。落ちこぼれて、まともな就職先もなく、冷たい視線を浴びてきた。

 競馬をやることで世間から偏見の目で見られた。競馬の仕事をしたことでいろいろなことで徹底的に侮辱され差別された。血統をやるとむかしの競馬サークルの中ではまことに不思議なことに冷ややかな目で見られた。誰もやらなかった未開の分野である配合論、配合史を書くとますます理解されなくなった。

 競馬以外の世界で、実務家としてきちんと仕事をすると、私の多面性はますます際立った。在宅勤務で平日の午後に毎日のように出かけると、さらに徹底的に不審者扱いされた。

 私のすべての側面をしっている人、理解してもらえてる人はひじょうに少ない。いちいち説明するのもめんどうだし、説明しても分かりにくいらしい。

 私のこの人生のテーマは 極限まで 自分の持てる可能性や自由を 追求し拡張し表現することかもしれない。自分を表現して理解されたいという欲求を少しでも満たすには、インターネットのホームページはステキな世界だと思う。

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 いつも散策していた

流山の私の遊び場。いっぱい散歩して自然を吸い込んだ。いろいろな原稿の発想が浮かんだ場所。写真外の左手の雑木林にオオタカがいるとかいないとか。キジも山鳩もタヌキも野ウサギも、私の借家の窓の下にいっぱいいた。大人も子供も誰も(私以外にもう1人だけ散策者がいた)、駅ができたら地価が上がる話はするが、こういう自然の中を散策して、自然を満喫しようとしないことが私には不思議だったが、世間から見れば私は泥棒狙いか何かでほっつき歩いている不審者で(町の有力者たちが頭がおかしいと言うK氏が、そう言いふらすのを、信じる人がいっぱいいた)、私から見れば世間は無味乾燥すぎる理解力のない人の集まりだった。後に、このへんの広大な原野は「おおたかの森駅」駅前として化けて消滅した。江戸時代は、幕府が欧州からもらった馬を育てていたのも、この少し東で、その碑があった。

 火星を見ていた


2002.11→ 2006.2. 千葉東葛地方最後の田園風景を3年半、満喫する。
  ここは、オオタカが生息していたし、キジバト、キジ、野ウサギ、タヌキ、
   メジロ、ウグイス、ムクドリ、カラスなどが、家に遊びにきたが、つくば
  エクスプレス開通で、再開発される。

2004.10 TVの連続出演 を人を介して誘っていただいたが、恥ずかしいから丁重に
  お断りする。(断って、もったいなかったな。申し訳ない。今は、もう出るの
  に遠慮はいたしません)。 兄弟3人、全員、本や新聞や雑誌で活躍したが、
  全員TVから誘われて、TVに出演したのは弟だけというのも、変人兄弟か。


2004.12.31 ホームページケヤキの向こう」をup。


1999.8 から、2005.2 まで、病気の連続。軽い脳梗塞2回。1回は言語野マヒで
  1週間、まったく喋れず。2日間全然立てず、やっと這ってトイレに行くだ
  けで、横になって布団かぶって寝ているだけという強度のぎっくり腰が4回。
  ヘルペス1回。マイコプラズマ肺炎1回。慢性外耳炎で週に1回耳鼻科に通院
  を5年続ける。老眼とパソコン近視の進行で常時メガネかけるようになる。
  流山で井戸水使っていたら猛烈な下痢の病気が1回。壁にペンキ塗って2日目
  の家に引っ越して、ぜんそく様のアレルギー。杉林の隣に住んで、猛烈な花粉
  症。
  と、これだけやって、3つの仕事を全部続ける。

   ぎっくり腰の時は、横向きに寝ているから、ノートPCを横倒しにして新聞
  の原稿を打っていた。校正は、横の壁にゲラ刷りの紙を当ててやるが、さすが
  に量は減らして仲間に回した。立てないときは、便座に座るまでに這い上がる
  のに3分くらいかかるが3日目には立てるものだ。最後はウツになったが、
  ホームページを作って気分よくなって、そういう状態も忘れることができた。
  これだけやると、精神的に少しは進化?するし、不思議な体験もしたりする。

   持ち物の好みが全部変わって、新興国景気で相場で大儲けして、予想は快
  調。メルマガの文体も変わって、一度は住みたかった中央線沿線へ住むことに
  なっていく。

2005.3 メルマガ 「ホースレター」 の発行元を、競馬通信社から笠個人に譲渡
  変更。「ホースレター」とはメルマガのために取っておいた、私にとって夢の
  タイトルだった。譲渡変更した2週間後に、規約改正で、譲渡できなくなっ
  た。滑り込みセーフの感動で泣けてきた。(青い字はクリックするとジャンプ
  します)

2005.4 ケータイ・メールマガジン「赤い血の◎」を発行。




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 simple is best 立川の昭和記念公園の1本の樹



 2006 2006年の阿佐谷ケヤキ並木



 おまけ付きで遊びまくり 相模湖でモーターボート遊び




2006→ 2008. 中央線沿線の公園や湖や町や有名店舗を、延べ4000時間、予想
  法を考えながら毎日のように歩き回る。私が知るかぎりでは、たとえば、吉祥
  寺や阿佐谷の、最も文化的で人間的な、すばらしい時期の、終末期だった。

2006.7 から デイリースポーツ日曜版に担当曜日が移動し、タイトル名を変更し、
  血統予想コラム「笠雄二郎の血統競馬」を連載中。

2006→ 2007. 血統マニアの〈チーム4分の3〉の人たちと一緒に、ホームページ
  ケヤキの向こうの「血統論」を 完成させる。(青い字はクリックするとジャン
  プします)

2007.10→ 2009. 鉱物の美石結晶を何百万円投じて蒐集していたが、宗教と間違
  える人が多くて、腹立って、人にもらってもらったり、池に投じたりして、
  ほとんど手放す。この頃、日本の文化風土は、消滅の方向へ向かっていって
  いた。






2009.11 「夕刊デイリー」廃刊。朝刊のみになる。

2010.2.7→ 2014 ツイッターで競馬クラスタと交流。他の血統論者である五十嵐
  理論やケン・マクリーンや吉沢譲治を切る。

2011.3.11 大震災、原発爆発


 setagaya 30代に住んでいた世田谷の歩道の落ち葉



2011.5.20 電子書籍の『血統論』書き下ろし、初版と、『サラブレッド配合史
  第4版を、栗山求氏に誘われた血統コンテンツのポータルサイト「血統屋」
  から大急ぎで発行。あまりに急かされるので、表紙の写真をセピアにする暇が
  なかったのは私のセンスのせいではない。

2010→ 2011.6.5 ? 22年ぶりに囲碁を再開。1年で勝率9割で、アマ2段から
  一気に5段になった。週に2回通い詰めて腕を磨いてくれた三鷹道場が突然、
  マスターの自殺でなくなる。なんで!? 自殺するような人じゃないと思うけ
  ど。打つ場所がなくなるじゃないの。






2012.9-10 電子書籍『血統あれやこれや1985年復刻版』と『週刊競馬通信80
  年代血統コラム復刻版
』を、「血統屋」から発行


2012.10 ホームページ「ケヤキの向こう」がファイル計算で204万byteなのでup通算102万字を超えたので、これも1冊の本とすると、毎週最低1枚更新していた写真=更新300枚も含めて本にすると(「メルマガ」や「デイリー」更新を数えると、なんだか計算不能)、300頁で全8巻になる勘定だ。(2012/10/23日記参照)

2012.10.10 〈まぐまぐ〉から、 有料メルマガテクニカル・チャートで株の天
  底やトレンドがズバリ
」を発行。(青い字はクリックするとジャンプします)

2012.12.22 〈まぐまぐ〉から、 有料メルマガ重賞・メイン全馬の軸馬指数」を
  発行。

2013.4 メルマガの、競馬研究家・笠 雄二郎の「ホースレター」ですが、
  血統研究家 → 競馬研究家に題名を変更。
  「赤い血の◎」 → 笠雄二郎の「今日の一言血統論」 に題名変更。

2013.7 gooブログ を、ジャンル別に、3つ同時に始める。





2013.11 19年間連載してきた「デイリースポーツ」のコラムを、超絶好調なの
  に、1000回記念でデスクと盛り上がった翌週に、降板を通告される。
  岩川隆、阿部譲二、江夏豊、平尾昌晃の次は私の番だった。そして誰もいなく
  なった。

2013.12 デイリーの降板決定後7番勝負 をプレッシャーの中で完遂する。「デイ
  リー」に、7回全部を掲載 しています。

2014.2 「サラBLOOD! vol.2 」(POG回顧)、
  「サラブレ」( Lady Josephine )と、単発原稿掲載。

2014.3→8 月刊競馬誌「サラブレ」に、平明な血統論「血統表の見方」を連載
  する(全6回、計21p、血統表合計71枚)。
                 世界中の血統論を読んできたつもりだが、
  ここまで、あらゆるファクターを包括的に、重要なことだけを簡潔・平明に
  書いて、しかも本格的な血統論は、海外の多くの古い本から読んできたが、
  世界でも初めての試みだと思う。日本にはもちろん存在していない。自身は、
  『サラブレッド配合史』と並ぶ、血統論の生涯の会心作 だと確信している。


2014.3.29 自宅で毎週土曜に、私塾血統&予想塾」を開催(忙しいときは休)。
 塾です
こんな部屋でやっています。また、再開しますよ。



2014.7 鼠径リンパ腫になるが、大病院の紹介状を断り、飲食物で治す。

2014.8.8 DL Market から、『AJG予想法』を電子書籍・PDF版で出版。

2014.9 相場でもうけて(相場の損益表は「株式テクニカル・チャートの研究
  に掲載)、PC3台を、XPから7へ、一気に移行する。

2014.9 有名コンテンツ・サイトから予想掲載の話を頂くが、予想をする木曜に
  長文の宣伝メルマガを書かないといけないので、「軸馬指数」に専念したい
  ら、またの機会にしてほしいと、丁重にお断りする。半年後くらいに、そろ
  そろいいかなと思ったら、サイトがなくなる。

2014.10 メルマガ「軸馬指数」を、JBISの許諾を取り血統表を入れて、菊花賞
  頃から本格的に徐々に新形式に更新して専心・注力する。

2015.2.2 DL Market から、『時計理論におけるスローペースの簡単補正法
  を電子書籍・PDF版で出版。

2015.(2.11), 3.12 競馬通信社の〈メルマガ「週刊競馬通信」〉(15名)に参加
  して、「競馬なんでもデパート」 の 連載を開始する。

2015.4.2  KADOKAWA/エンターブレインのムック Mook、
  『POG・クラブ馬選びに役立つ 走る馬の見方がわかる本 』に、
   前年、月刊誌「サラブレ」に6回連載した「血統表の見方」が、
   1回にまとめて収載される。生涯に4回も血統論を書いたことになる。
   『配合史』、ホームページ、ミエスク、サラブレの4回です。
   4月3日に、アマゾン約200万冊中、117位の売り上げを記録する。

2015.4.17 DL Market から、『G1データ・最強の発想』を電子書籍・PDF版
  で出版。ついに、<予想法4部作> の出版を終える。

2015.4.24 「詩集」に「ラベル」を掲載。(青い字はクリックするとジャンプし
  ます)

2015.5.5-2016.2.9 宇宙と雑学の話 」の、終盤以外の形をまとめる。



2015/6 2011年に原発が4基並んで爆発という凄い経験をする。それが機になった
  のかどうか、それからの4年で、書籍8冊、大苦労のムック1冊を出版、有料
  メルマガを3つ発行し、ブログを3つ、ホームページのコンテンツを4つ、
  新たに世に出す。ホームページは byte 数換算で100万字を突破し、競馬
  私塾を始めて、鶏卵大の鼠径リンパ腫を治療し、体重を20kg減量する。

(2013.4.15)─2016.1.25 コーヒー、酒、タバコ、炭酸飲料、スポーツドリンク、
  遺伝子組み換え植物、ムダな着色料や保存料、はとっくにやめていたが、
  コメ、パン、コーン、ジャガイモなどのナス科植物、肉、魚、牛乳、乳製品、
  きのこ、昆布、4白(精製塩、白砂糖、白米、精白小麦)、異性化糖、人工
  甘味料、豆腐、を断って、1日1食で、体重を78kgから58kgへ減量成功。
  果物と野菜しか食べないベジタリアンになる。


2015.11 札幌馬主協会の「北の蹄跡」に平明な血統論を書く。
  年が替わって2回目を書くはずが、初回の平明な血統の解説が、難しすぎると
  言われて降りる。あれ以上、平明に書く方法は、世界中探しても有りえない。

2016.4.19 メルマガ「重賞・メイン全馬の軸馬指数」を「笠の血統批評と全馬の
  「軸馬指数」」
に改題。

2016.6.9 「枠目論」研究者は私であることを告白する。私は血統研究家だけでは   なく、枠目論研究者はだけではなく、裁判判例校正チームリーダーだけでもな   く、バブルの大崩壊を生き抜いた相場師だけでもなく、ネットで言われている   らしいが、健康法研究家だけでもなく、鉱物コレクターだけでもなく、ジャズ   や映画志望耽溺経験の落ちこぼれだけでもありません。私は笠雄二郎です。
  お見知りおきのほど、よろしくお願い申し上げます。

2016.10.2 「軸馬指数」は12カ月連続で、どの開催終わっても通算成績が軸馬
  連対50%を一度も割らない記録を達成した。

〈まぐまぐ〉アカウント作成はこちらから、できます。

2017.1.29 『G1データ・最強の発想』の2017年版を出す。








◇出版物の生涯の会心作は、「著書」と「日記」に、メルマガの会心作は
  「メルマガ」に、予想コラムの会心作は「予想論」に、まとめています。



私の予想の理想郷は、全ファクターの統一理論の完成です

 (血統論、レイティング理論、時計理論、
   相馬眼、調教観察、データ解析、単純出目論、枠目論、
   能力指数論から、独自の予想法など、
   ありとあらゆる方法論を駆使できるのは、地球上で私以外に見かけたことがない





 2004年か 2004年



 ◆これで、受験校でアホバカ3兄弟と教師に言われ続けてきた3兄弟で、28冊
 出版した。アホバカ3兄弟の新聞や雑誌執筆は、数えるのは、とても不可能だ。
 学校の建学精神は書かれている言葉はりっぱだったが、教師は意味を理解してい
 なかった。何回、あるべき教育理念を言っても、教員室で髪の毛引っ張って吊し
 上げられた(笑)。

 受験勉強を拒否して、好きな本ばかり片っ端から濫読したので、独創性が失われ
 ることはなかった。


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ここ、欅の向こうに舞い降りたすべての人に、幸福と発見の日々が訪れることを熱く願っている。

人生のいろいろな経験、出会い、感動、障害、失敗、挫折、遠回りを、すべて糧として生きてきた。
私が出会った すべての人、 芸術作品、馬や樹や、そして地球や宇宙 …、 あらゆるものたち、 そして 訪れた困難にも、 いつも、どこかから誰かから、タイミングよく もたらされる幸運にも、 心より感謝したい。

そして 今日も、自分を信じ 目を輝かせ
青春の夢を抱いて この人生を歩み続けている …。(続く)













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mail ⇒ serabi3939 ◎ yahoo.co.jp か、
kaminotesio ◎ tescogabby.com に送ってください。yahoo のほうがベターです。
スパムメール送信目的の、ホームページいたずら自動巡回ロボット対策のため、◎を@(半角)に入れ替えてください。◎の直前と直後のスペースを削除してください。
カットアンドペーストしてメールをお送りいただく際は、お手数ですが、以上の加工をお願いします。


 (メルアドの、天皇賞馬カミノテシオは、ハイセイコーの宿敵で、
  私に競馬サークルに入る人の縁をつくってくれた。馬名に尊敬するヨー
  ロッパの名馬産家フェデリコ・テシオの名が入っているのも美しい。
   桜花賞とオークスをともに大差で逃げ切ったテスコガビーは、私と深い
  縁のあるテスコボーイの代表産駒で、POGで最初にとった愛馬だったが、
  哀しいことに急逝してしまった……

  このホームページを、私に夢と自信を与えてくれた彼女に捧げたい。)

 華 麗 

 根性 
よく考えたら、ムーティエとモンタヴァルは兄弟だ


いちおう、セキュリティ上、どこでも言われていることを書かせてください。
・html 形式のメールはなるべく送らないでください。outlookはデフォルトでは html形式になっています。
・初めての方からのメールに添付ファイルが付いてくると開けません。
・題名にご用件や御名前を日本語で書いてください。でないと受信時に自動的にゴミ箱に行ってしまう可能性があります。
・迷惑メールらしきものは受信できない設定になってます。メールの返信がない場合は、上記に従って送り直してください。
・あなたのPCがウイルスに感染すると、ご自分では自覚していなくても、ウイルスメールを世界に向けて自動配布することがありますから、ウイルス・チェックをしたほうがいいと思います。


私に知識を尋ねないでください。私は認識で生きているのであって、知識もあることはありますがそれで生きていく気はむかしからまったくありません。誰もやらないことをやろうとして生きてきたからです。知識でしたら図書館やネット検索で調べてください。
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