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 ◇ profile & mail



 こだわりは捨てたいが、夢は尽きない 
井の頭の冬の夜空。歩きながら考えるのが好きだ。
空はいつも、こだわりなく姿を変え、二度と同じ相を見せることはない。
いつの日か、あの空のように、こだわりをなくして生きるようになりたい。



欅 ------------------------------------------------------------------------
ケヤキの向こう とは、東京競馬場の3コーナーと4コーナーの中間あたり(実際はスタンドからの見た目よりも、わずかに4コーナーに近い)の馬場内にあるケヤキやエノキやシラカシの群生した杜(mori) の向こう側のこと。伝説の大ケヤキは1970年代に台風で倒れたが、ふつうのケヤキが今も立ってる。中距離レースの三分三厘の勝負どころで、昔からファンに“欅の向こう”と語り継がれてきた。
あそこで一呼吸入れて仕掛けていった名馬の数々。。。今では競馬文化のなかの一つの詩語となった感があるが、中村勝五郎のジョセツ、田中角栄のマキノホープ、そしてサイレンススズカといった美しいサラブレッドたちが、夢破れ脚折れ たおれてしまった あつい地点でもある。
                 *
府中に対する思い入れはエッセイをご覧ください。
「ケヤキの向こう」という名のホームページで自分の life work を恥ずかしながら展覧するのが便利であり 夢でした。散逸した原稿も多く、今のところ時間も足りず、全部は まとめられませんが、『日本サラブレッド配合史』の御愛読とあわせて、永遠に完成を目指し続ける私の 飽くなき成長の一端を、御笑覧ください。
------------------------------------------------------------------------ 欅








笠 雄二郎 (りゅう ゆうじろう)
─────────────────────────────────────
サラブレッド血統研究家。 法律データベースの編集者。 生き切ること。

趣味・・ジャズ、映画、(彫刻とバレエ以外の)すべての芸術に接すること、
    相場、 相場のテクニカルチャートの研究、
    囲碁、将棋、  PCマニア、書物濫読、
    森林浴、空や海や樹と接すること、鉱物収集、
    月相と人間の行動の関係の研究、呼吸法など、無数

愛媛県松山市、瀬戸内の海の近くで生まれる。魚座、B型。

☆欲しているもの・・・自由な魂、無限の叡智、不屈の闘魂
☆最期の日に食べたいもの・・・子鯛の いずみや
☆臨終で言いたい言葉・・・「楽しかった」

☆モットー・・・ simple is best.
☆好きな言葉・・・自分を信じること
☆苦手なこと・・・自分を信じること

尊敬する人・・・マハートマ・ガンジー
何かを学んだ人・・・まず多くの芸術家、そして勝負師やスポーツマンなど
              持てる才能の極限まで生きた人たちすべて。
            ジム・ロジャース、ピーター・リンチ、羽生善治
             アイザック・ニュートン、松井秀喜、村上春樹なども


誕生日が1週間以内に近接している人たち・・・
武豊、岩田康誠、岡田繁幸、
渥美清、吉永小百合、松田聖子、アインシュタイン
ライスシャワー、ヤマニンウエーブ、ベガ、シンボリルドルフ、ハイセイコー


笠雄二郎の血統表
┌────────┬───────────┬──────────────┐
│        │ ↓鹿児島から養子に │ 薩摩(川内)       │
│ 父・松山    ├───────────┼──────────────┤
│   (和気)  │ 熊本(菊池)    │ 肥後熊本 ←遡ると京都  │
├────────┼───────────┼──────────────┤
│        │ 東京(新宿)    │ 東京←江戸(上野)←信濃←京│
│ 母・東京   ├───────────┼──────────────┤
│  (下落合) │ 金沢        │ 金沢           │
└────────┴───────────┴──────────────┘

クロスなし。アウトブリードが2代継続されている。
遡れば、衣笠氏が九州に流され都落ちしてのち、改姓して笠を称したという。
サイアーラインはほんとうは京都→熊本で、祖父が鹿児島から養子に行っているから、血統表では鹿児島がいちばん上のラインになる。母の父のラインは遡ると江戸時代以前は、江戸←信濃←京だから、まったくの雑種だ。
顔や体つき・思考力は祖父の鹿児島のラインの、感性は東京の、意地っ張りなところ・底力は東京、熊本の、のんびりしたところは鹿児島の、倫理観は熊本と、母の祖父の母の父のラインの影響を受けているかもしれない。

スピードは母系、スタミナは父系からと思うが、詳細不明。走るとスピードはまったく見劣ったが、山の上の松山城まで登るような山登りコースを走ると、ときどき嵌って別馬のように大駆けした。左回りの坂のあるコースが好き。

父は曲がったことが嫌いで、医者として ばかまじめな仕事をしていた。野球、遠泳、乗馬、囲碁、鉄棒を好み、そして長い間 戦地にいて、戦史に残るほどの非常な苦労をする。部下に優しくして、終戦になると中国奥地から部隊の逃避行をおこない、天津の収容所を経由し、九州上陸時の部隊全員の帰還事務処理までやって無事帰還したあと、何十年経っても御礼の便りを送ってくれたり、四国の家まで訪ねてくださる人たちもいたと、死んだ後に聞かされる。部隊上層部は飛行機などで、さっさと逃げていたということは子供の頃に知っていたから組織とか権力とかは信じない感性が私には染みついている。

私は戦争のPTSDで屈折した帰還兵の父をじゃけんにしなかったことも、息子として自分の父と十分に会話したことも、人生の誇りに思っている。

母は趣味は花づくり、短歌、絵など多彩だった。交通機関がストで止まっても往復14kmくらい歩いてピカソの展覧会とか見に行っていた。母の父は音楽が趣味でヴァイオリンを弾いたりしていた。母の祖父は11歳で彰義隊に入って戦い、後に横浜で株屋をやり、その姉は根岸競馬に通う。

(プロフィールなんてのは、しょせんはクサい作業だが、名前や競馬のことで、あるいは落ちこぼれだ、やれ転職屋だと、蔑まれ白い眼で見られて生きてきた人間は意地でも書くべきだと思う. 苦笑。
 で、子供の頃は御多分にもれず、親に反発しながら自己形成してきた。でも、振り返ってみると、こういうふうなかんじにおいて影響を受け、血を引いているようだ。
 今回、プロフィールを書くにあたって人生を振り返ってみたが、吸い取り紙のように、若い頃はいろいろな親族の趣味や個性、長じてからは自分の経験や出会いが、必然であるかのように絡んできていることが、以前、思った以上に再確認できた。人生って、こういうものなのだろう。)


 のんびりしたとこなんですわ
育った家の近くの海



家が近く保育園から高校まで一緒に通った須賀田菊仁君が後に農林省競馬監督課長をやるという不思議な縁。なんで競馬場で会うことになるんや。保育園では実質的な園長さんである堀井薫さんに出会ったのが忘れられない。お絵描きは得意だったが、3年通って、一度もお日様を描かなかったので常識外だと心配され騒ぎになる。

小学生の頃は読書濫読、草野球、海に泳ぎに行く日々。若い頃に乗馬をやってた父と競馬を見始める。将棋や碁や株も教わる。
小学校がなじめなかったのかストレスのせいか覚えてないが、2年の頃、構音障害が出てカ行の発音がまったくできなくなって、街の保健所までバスで通ってトレーニングして治す。豊田玲子先生にはお世話になりました。ありがとう。もともとかなりシャイだったが、そのせいもあって?、30歳頃まで人と喋るのが苦手だった。それもあって本を読むのが好きになったのだと思う。学校の図書館の本を1日2冊ずつ片っ端から読みあさる。その頃、イジメにも遭う。

中高6年制進学校(学校の教育方針に裏表あり)に進み、中学時代は昼にラジオで株式市況を聴いたりしていた。小学6年のときに買った株は、チャート本の見本になるような、みごとな高値づかみになっていた。空の流れていく雲や、海辺の打ち寄せる波を見ていて、いつまでも飽きることがなかった。クラブ活動は新聞部。授業中に前の席の友人と紙に書いて将棋や碁をやるほど凝った どうしようもない生徒だった。体育の授業中も 並んで走る友と、空で将棋を3二飛車、同角成りとか頭の中に将棋盤をイメージし口で言い合いながらやっていた。登攀記、冒険記、探検記を読み尽くす。

高校時代は映画を観たりJazzを聴いたり詩作したり芸術三昧。この頃、本で宇宙の不思議さに強く魅せられるが、理科系がダメで進路は諦める。クラブは友人と第二文芸部というのを許可なく作り、受験教育を批判して雑誌を発行し、教師にいじめられ続けた。特に数学と物理は勉強を拒否し、他も中2から高3まで暗記の一夜漬け以外は一切勉強せず、最後まで自分の哲学を貫いた。白紙答案出したり、試験の日に欠席したり、赤点が3科目あったのに卒業できたのは、事実上の放校だったのだろう。大学受験勉強は3日だけやる。高3の冬に起きた偶然で数奇な出来事はいずれ書く機会があるかもしれない。つい近頃になって運命論者になってきたみたいだ。

本と出会えたこと、友人と出会えたこと、芸術と出会えたこと、これらの力によって少年時代を生き抜くことができた。ありがとう。

日大芸術学部に入り上京。下宿は東京に来てすぐ決めて居着く。布団が到着するまでの2、3週間は、手拭いと下着を入れた鞄を枕にして服を着たまま4畳半の板の間に寝ていた。カーテンも何もなかった。あの一年は何もかもゼロからの出発になったが、私の心は自由と喜びに満ちあふれていた、そして少しばかりの青春のかなしみと…。あの18歳の春が私の人生の原点といえる。人生で魂の自由に優るものは何もない。

若気の勢いで親に独立を宣言し、仕送りがなくなって自分で働きながら学生生活を送る。のちに親とよりを戻すが、何年かは下宿しながらの勤労学生だった。そして、入学の春にはいきなり学校の不正問題に端を発したあの長期のバリケードスト突入にもでくわす。クラス委員に立候補するが幸運にも落選し、イデオロギー化した闘争が肌に合わず離れる。そのせいでバリケード生活は送らなかった。

幸運なことに、この長い休学の期間が、勉強しないで好きなことに熱中していた中学高校時代と同じで、再び、さまざまなジャンルの学びの日々となった。良いバイトがなく毎日の食べるものにも事欠いていたときに、なけなしのお金で初めて買った朝日の求人欄で新聞社のバイトを見つける。完全に採用のタイプではなかったらしいが、人事課長が日大の先輩で面接の席でふっと思い付いたように採用してくれる。
そのバイト先の新聞社では、のちに「勝手連」を生み出した田村正敏がアルバイトの労働組合を創ったばかりで、そこで組合運動を研究実践し委員長も一度務める。その組合は今でもバイトの組合として存続しているが、当時、堕落した大労組組織とも無縁な、日本で もっとも個性的で アメーバのようにしたたかで 善意に満ちた 最良の一つになっていた。

下北沢の下宿屋に集まった仲間たち、バイト先の英字新聞社での仲間たちとの5〜6年間の交友は、まさに梁山泊。青春にいて考えられるかぎりの ありとあらゆることをやり尽くした。
映画は多い年で年に300本、ジャズ喫茶でLPは年に1000枚は聴いた。この2つの蓄積はとくに力になった。

2年の休学の間に、南青山にあったシナリオ研究所を卒業。
詩誌『解纜』同人として詩作。
夢であったドキュメンタリー映画を撮ることは未完。

もし、競馬の仕事をしなかったら、
映画を撮っていたか、
相場の世界でストラテジストになるか、
ヘッジファンドの運用をしていたかもしれない。

下北沢に集まった仲間の半数以上が神戸出身者で、バイト先に横浜方面出身が多かったので、今でも話し言葉は不思議がられるが、標準語を神戸訛りに崩して 横浜のメリハリを少し混ぜている。

血脈も人脈も訛りも影響を受けた文化も私は多様だ。嬉しいことに何のこだわりもない。自分の内に瀬戸内海、松山、鹿児島、熊本、金沢、京都、神戸、東京、横浜、ハワイ、地中海の香りが混在し漂っている。
東欧、仏伊などヨーロッパの映画、ラテンミュージックやジャズ、モーツアルト、中学高校の設立母体がカトリック系だったので宗教に対する反発もあってフランスのカミュやサルトルの実存主義哲学に傾倒し、クレー、ピカソ、ゴッホの絵や、とくに日本の詩の影響を熱く受けている。

多彩なジャンルの価値観のシャワーを浴びてきたおかげで、イデオロギーや宗教や一切の権力的な組織というものに興味が湧かない。
(趣味のことは「エッセイ」のコーナーをご覧ください)


 のんきに遊びました
育った家の近くの山



バイト先の会社の社員には麻雀、オイチョカブ、競馬狂が驚くほど多かった。彼らに勝負の厳しさや粘り腰を教わった。
下北沢に集まったうちの一人、M原は、灘から東大に行ったが、競馬が好きで競馬ばかりしていた。彼のお父さんは大勝負だと府中まできたりしていたが、神戸から新幹線で新橋の競馬会の上にあった軽種馬協会の事務室に輸入牝馬の血統表の本を毎年買いにきていた。私もまねして買いに行き一気に血統に開眼する。

就職は日本中央競馬会だけ当たってみたが、出身校が一流でないと言われて門前払いを食う。他に人生でやりたいことが見つからず遊んでいた。出席にめちゃくちゃうるさい先生のフランス語が、試験は完璧にできたが出席不足で、卒業もできそうになかったが、働いていたから出席できなかったんですと試験の日に先生に食い下がったら黙ってらしたが、後日見たら単位がもらえていた。

TV局に学校推薦で入りたかったが、卒論に書いた「番組編成論」で当時の低俗な番組編成が人間をダメにすると批判し、これからの時代のTVはニュースとスポーツとドキュメンタリーだと論を展開したら好まれなかった。時代はドキュメンタリー以外は私の言ったとおりになった。

人のコネでシンクタンクに入れたのに、そういうのが燃えない質なのと、自分が仕事して生きていくには活字やメディアの世界でないと気が晴れないのではないかと思っていたので、競馬専門紙「ケイシュウ」に就職してしまう。でも、「サラブレッド血統センター」の前身とも言えるケイシュウは白井新平さんが手放してから“血統のケイシュウ”のイメージはなくなり始めていた。
当時で競争率20倍の試験を受けず、『配合史』の草稿を見せて裏口から専門紙に入社後、浅見編集長に抜擢され、3日目にして印を打ちコラムを持つ。
1975年に前代未聞、当時では考えられない「ナスルーラ3×4」などの表記で、血統・配合から見た予想コラムを書きまくり、コラムの年間的中率6割を達成する。家でも仕事をやったので、朝から晩まで競馬漬けだった。

低収入や会社のポリシーや経営者の呆れるような態度に不満で、私はそれほどやめることに積極的でもなかったが、あっという間の勢いというか、どうでもよくなって24人と一緒に「ケイシュウ」を退社する。競馬の会社を辞めると他の競馬の会社には入れないというおかしなルールがあった。競馬会社という特殊な世界を出るとどこにも採用してもらえず、5カ月目に面接25件目で法務特許事務所に入れた。

そこでの4年間は競馬場は皆勤、給料は安かったが残業はゼロだったので夜はほぼ毎日、家に直行してほとんどすべての時間を競馬の研究に捧げた。そのときの2500レースの膨大な分析結果は全部捨てずに持っていて、今日に至るまでずっとそれを折に触れて読み直してきたが、もうほとんど記憶してしまっている。その時の蓄積が今の予想に活きている。ささいなことで逆鱗に触れ解雇される。

当時は28歳以上の転職なんてアホがやるものというご時世だったから仕事が見つからず、いよいよ山の中で農業でもやるしかないかと思って、畑を探し始めていた頃、知り合いの出版社を手伝い、友人のツテをたどって最大手の編集プロダクションに入り雑誌などの編集者になれる。



 ジャズ喫茶 new DUG
新しいステージのドアを開けていって




ご自身はお寺の子で若い頃絵を描いていて「坊主と医者の息子にはろくなのがいない」という諧謔的な持論を持つ西峰三景という業界のキーマンと出会い、とにかく多趣味で守備範囲が広かったせいもあって、ありとあらゆるジャンルの出版物の校閲・校正に回される。おかげで、業界で2人しかいないと断言できるほどの場数をこなす。これで得た自信については感謝の言葉もない。

主に、現マガジンハウスのかつての看板芸能誌「週刊平凡」のリライト校正(もの書いてたからリライトができたのと、日芸を出たという縁もあった)、スポーツ新聞の競馬面の制作・校閲(専門紙にいたからにちがいない)、東洋経済新報社の雑誌や四季報の校閲(金融経済が好きなこともあって縁が続く)、法律判例DBの校正(法務特許事務所にいたからと呼んでいただく)などに携わる。

年収1200万円の雑誌のレギュラーの仕事が決まりかけていたときに、突然横やりが入って新聞に回される。その頃、時間の不規則な仕事やハードな仕事を続けすぎて体調を崩し、死んでしまっては悔いが残ると思ったのと、人の書いた競馬の原稿を読むのにいらいらして発奮し、一気に配合史を書き上げることができた。本を出した後、健康は快復し始める。

1984.3.9.   1973年に書き始めた、配合論から見た血統論を配合史をたどることで実証するという国内外に前例を見ない視点から書かれた『(日本)サラブレッド配合史』を1983年9月に書き上げ、レイアウトから装丁から何から何まで全部自主制作で世に出す。当時までは配合論なんて世界にほとんどなかったし、“配合から見た血統論”なんてジャンルは存在しなかった。存在しないジャンルのことに日夜没入することに興奮と戦慄を覚えた。おそらく、好きなことに対する長い期間の のめり込みと 啓示のような産物だと思う。世に出した3日後に、足りない印刷代を工面してくれた父が脳溢血で急逝する。最後の言葉は「こんな難しい本が売れるか」だったが、これはシャイな賛辞と受け取った。ありがとう。

1985、加藤栄、田端到、早野仁、栗山求、望田潤、尾林奉之各氏など、競馬の物書きを、その後多数輩出することになった伝説の競馬・血統雑誌「週刊競馬通信」に、当時発行を請け負っていた水雲社の伊坂孝史氏や、青木義明氏から要請され、外部執筆者としては、はじめて、佐藤洋一郎氏とともに参加。

競馬通信社の雑誌の執筆や編集に関係していた全ての血統評論家に『日本サラブレッド配合史』の血統論が影響を与えたことを誇りに思っている。

何人かの配合コンサルタントをやっている人から、自分のゴーストで書いてくれと言われてお断りする。そういう世界に入っていく興味も失う。


「書斎の競馬」(全号) 「別冊宝島vol.187」「競馬王」 「HORSEMAN'S REVIEW」などに執筆。

著書に『日本サラブレッド配合史』1984
  (初版は私の作った らんぐる社、第2版箱入豪華装丁版は水雲社、
     第3版は競馬通信社から出た普及版)
  ◇click here →アマゾン。中古だと定価より高くなることが多いです。初版は古本屋で8000円というのも何度か見かけました。古本屋のは私が買い戻していますが、私以外の方は版元などで新品をお買い求めいただいたほうがお得だと思います。(現在、完売しました)

初版を出した私の“らんぐる社”とは、名血 Quadrangle (4角形)と、夏目漱石の「智に働けば角が立つ」と、クッキー「猫の舌」(フランス語で langue de chat ラングドシャ、langue は言葉の意も)を しゃれたもの。クッキーでも味わいながら小難しい血統論を読んでください。


『忘れられない名馬100』1996
   (共著・100頭の血統批評を担当。学研・絶版)
『的中へのアクセス』1997(共著・競馬通信社・絶版)

* 絶版の本は、アマゾンの〈ユーズド〉で今のところ取り扱いがあるようです。
  ◇click here →アマゾン amazon.co.jp


 いつも ありがとう
公園のベンチで



バブルの頃からは、法律・判例データベースの在宅校正チームのチーフを任される。これが編集の仕事のライフワークとなっていく。当時は私も誰も、家で夜間割り増しとかのつかない仕事は大幅な収入減になるから、したがらなかったが、このおかげで、競馬や相場や読書やパソコンいじりなどの自由な時間配分が可能となった。この深い意図に感謝したい。

空前のバブルのせいで世田谷で住んでいた借家の土地が、坪500万になったので追い出される。電車の窓から見て、当時は駅の裏に気に入った樹があった新松戸で樹を見てふと降りて、物件を探し転居する。そこでは、翌年に近くにできた丸荘証券(のちに金融恐慌で山一、三洋とともに日銀特融を受け倒産)の支店にパソコンが置いてあって、株価データが毎日ネット配信でデータベース化されていたので、毎日通ってパソコンを使わせてもらい、テクニカル・チャートの独自の研究(カスタマイズ)を完成する。

それが89年7月に間に合ったおかげで、バブルの90年の崩壊を前年から予測し、暴落が始まるとさっさとウリ、暴落の底で買い、その上げ下げを何年も繰り返し、儲けてマンションを99年の最安値の年にキャッシュで買う。私は人とは考えが異なる宇宙人であり、contrarian コントラリアンだ(ほとんどの期間はトレンド・フォローですけど…)。

1989から1992 までの大暴落の4年間は、相場も仕事とする。



金になるかどうか抜きで、独創的な考えの構築に取り組んできたが、配合論や打ち出したいろいろな概念を無断盗用されることがいやで、競馬から離れるつもりで2回筆を折ったことがある。そのせいで、途中から他人の競馬論も血統論も読まないことにした。片っ端から収集していた競馬の書籍はほとんど全部捨てる。


 simple is best
 シンプルな部屋で、シンプルな気持で



1994〜1998. 競馬通信社のネット、パソコン通信、fax, Tel などの「マルチメディア予想」で突然、復帰。全国全重賞&関東全特別の本紙予想を担当。通算馬連的中率43%を記録する。でもなぜか、この企画は消滅してしまう(なんでや!)。

1995 から「デイリースポーツ」関東版に血統コラムを連載中。
2000 からメールマガジン「ホースレター」発行。
2000 に、最高裁判所のホームページの判例集の校正チームのチーフを担当する。


少年時代は時間軸の始点と、空間の果てが不思議な存在で、宇宙の壮大な美しさと、芸術に魅せられた。今では、血統表のあのなんともいえない美しさや、血統論の構築は、私のなかでは美の宇宙であり、予想の印は芸術的な目標かもしれない。そういう意味で、私の夢はいつまでも引き継がれているといえる。


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17歳までは与えられた環境の中で自分の趣向が芽生えた揺籃期、
18歳で上京してからは、自分で選択して、ゼロから しゃにむに、生きていくための仕事のスキルを身に付け、そして感性の土壌を耕す若年期、
36歳からは当時としては珍しい在宅勤務となり、家にいて自由な時間の中でいろいろなスキルを磨いた自由課題の発展期、
53歳で人生観を再度大転換しないといけないことになって、54歳からは目標の完成に向かって新たなエネルギーで生き始める。
ビッグサイクルは18年、ハーフサイクルは6年で回る傾向がある。
72歳あたりからは相場と社会貢献がしたい。


というわけで、21世紀に入って、第4の人生の前半のサイクルを開始。不要な物、不要な習慣、不要な感情をすべて捨て始める。エネルギーのすべてを少ない目標に注ぎ込むために。

 わたしは 強運だ
ホームページを作った流山の夏の書斎の窓から



(リュウという名前だからアジア系だと誤解されて、何かと距離を置いて見られてきた。受験教育を批判し芸術を志望して受験校ではまともな扱いをされなかった。競馬をやることで世間から偏見の目で見られた。競馬の仕事をしたことでいろいろなことで徹底的に侮辱され差別された。血統をやるとむかしの競馬サークルの中ではまことに不思議なことに冷ややかな目で見られた。誰もやらなかった未開の分野である配合論、配合史を書くとますます理解されなくなった。競馬以外の世界で、実務家としてきちんと仕事をすると、私の多面性はますます際立った。私のすべての側面をしっている人、理解してもらえてる人はひじょうに少ない。いちいち説明するのもめんどうだし、説明しても分かりにくいらしい。
 私のこの人生のテーマは 極限まで 自分の持てる可能性や自由を 追求し拡張し表現することかもしれない。自分を表現して理解されたいという欲求を少しでも満たすには、インターネットのホームページはステキな世界だと思う。)


2004 TV出演を人を介して誘われたが丁重にお断りする。そんなん、まだよ。
2004.12.31 ホームページ「ケヤキの向こう」をup。

2005.3「ホースレター」の発行元を競馬通信社から笠個人に譲渡変更。
2005.4 ケータイ・メールマガジン「赤い血の◎」を発行。
2006.7 から デイリースポーツ日曜版に担当曜日が移動し、血統予想コラム
   「笠雄二郎の血統競馬」を連載中。



ここ、欅の向こうに舞い降りたすべての人に、幸福と発見の日々が訪れることを熱く願っている。


人生のいろいろな経験、出会い、感動、障害、失敗、挫折、遠回りを、すべて糧として生きてきた。
私が出会った すべての人、 芸術作品、馬や樹や、そして地球や宇宙 …、 あらゆるものたち、 そして 訪れた困難にも、 いつも、どこかから誰かから、タイミングよく もたらされる幸運にも、 心より感謝したい。

そして 今日も、自分を信じ 目を輝かせ
青春の夢を抱いて この人生を歩み続けている …。(続く)








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★ mail → kaminotesio(笑)tescogabby.com (8/18現在、スパムメールの掃除のために、kaminotesio笑tescogabby.com は受信しない設定にしています。
mail笑tescogabby.comに送ってください。笑は@のことです。スパムロボットが巡回して見ているらしいから、あほらし。)

 (メルアドの、天皇賞馬カミノテシオは、ハイセイコーの宿敵で、
  私に競馬サークルに入る人の縁をつくってくれた。馬名に尊敬するヨー
  ロッパの名馬産家フェデリコ・テシオの名が入っているのも美しい。
   桜花賞とオークスをともに大差で逃げ切ったテスコガビーは、私と深い
  縁のあるテスコボーイの代表産駒で、POGで最初にとった愛馬だったが、
  哀しいことに急逝してしまった……
   このホームページを、私に夢と自信を与えてくれた彼女に捧げたい。)


・私からの返信は、このメルアドからとは限りませんので御承知おきください。
・別のメルアドをご存じの方は、今までどおり、そちらに送っていただいても、まったく問題ありません。
・なるべくですが、無料メール、フリーメールから送らないでください。


 できないこと なんて ない
忘 我 夢 中



いちおう、セキュリティ上、どこでも言われていることを書かせてください。
・html 形式のメールはなるべく送らないでください。outlookはデフォルトでは html形式になっています。
・初めての方からのメールに添付ファイルが付いてくると開けません。
・題名にご用件や御名前を日本語で書いてください。でないと受信時に自動的にゴミ箱に行ってしまう可能性があります。
・迷惑メールらしきものは受信できない設定になってます。メールの返信がない場合は、上記に従って送り直してください。
・あなたのPCがウイルスに感染すると、ご自分では自覚していなくても、ウイルスメールを世界に向けて自動配布することがありますから、ウイルス・チェックをしたほうがいいと思います。


私に知識を尋ねないでください。私は認識で生きているのであって、知識もあることはありますがそれで生きていく気はむかしからまったくありません。誰もやらないことをやろうとして生きてきたからです。知識でしたら図書館で調べてください。
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